しあわせの理由

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しあわせの理由
グレッグ・イーガン著 山岸真訳 2003 早川書房


【背表紙の内容紹介より】
12歳の誕生日をすぎてまもなく、ぼくはいつもしあわせな気分でいるようになった…脳内の化学物質によって感情を左右されてしまうことの意味を探る表題作をはじめ、仮想ボールを使って量子サッカーに興ずる人々と未来社会を描く、ローカス賞受賞作「ボーダー・ガード」、事故に遭遇して脳だけが助かった夫を復活させようと妻が必死で努力する「適切な愛」など、本邦初訳三篇を含む九篇を収録する日本版オリジナル短篇集。


私見
 いや実におもしろかった。最近読んだSFの中でも随一に読み応えがあり、考えさせられた。やっぱりSFはこうでなっくっちゃあ。


 解説にて、坂村健氏は、イーガンの作品の基調テーマの一つに「私って何」、「自意識とはどこにあるのか」といったアイデンティティの定義の不確実さがあると指摘している。私も全くその通りだと思う。イーガンの作品を読むことによって自己意識の不確かさに思い至ることは多い。


 表題作もそうだ。主人公マークは異常に幸福感の強い少年だった。脳腫瘍のせいでロイエンケファリンという幸福を感じさせる物質が大量に分泌されていたからである。手術によって脳腫瘍を取り除くことに成功したマークだったが、今度はしあわせを全く感じることができなくなってしまう。手術の逆効果として幸福感を刺激するニューロンが失われてしまったのだ。


 何にでもポジティブな感情がわかず、ネガティブな感情しかわかないマーク。30歳になったとき、技術の進歩によった新しい手術を受ける。死滅した部分に4千人分のデータベースから抽出された神経を移植したのだ。しかし、当初の目論見通りいかず、手術後のマークは4千人がいろいろなものに感じるしあわせを全部引き受けることになってしまう。たいていの女を美しいと思い、たいていの料理をおいしいと思う。何にでも満足としあわせを覚えるマークだったが、それを苦痛に感じていた。 自分って何? 医師たちはマークが何にしあわせを感じるか自分で決められる装置をマークにつけることでこれを解決しようとする。


 何とも皮肉なストーリー。読者は人のしあわせが所詮脳内物質によって引き起こされたものであることを目の当たりにするだろう。そして、マークの苦悩から、何にしあわせを感じるか? ということが自己のアイデンティティに重要であることに気づく。何が好きで何が嫌いかという組み合わせが自分と自分があるという感覚を作り出すのだ。


 人間はだいたい何かに対して何らかの感情を抱く。それを簡単に分類するならば、一般的普遍的な感情とその人を規定できるような個性的な感情にわけられるだろう。それらの積み重ねが自分らしさになるわけだが、それら感情はなぜそのように抱くのだろうか? なぜ私は他人の暴力を忌み、不正を唾棄しようとし、自然を愛し、子供は大事にしようと思うのだろうか? なぜ私は納豆が好きで、グリンピースが嫌いで、派手な化粧のお姉系が苦手で、平沢進の音楽が好きなのだろうか?


 マークはそれを自分で決することができるようになったが、私たちはそうはいかない。結局、それらの感情は自然淘汰と偶然の柔軟性の末、そうなったのだ。イーガンはもちろんそれも織り込み済みで、マークの存在は、自分の物事に対する感じ方は単なる適者生存と偶然の結果であるということや、自然にはそうそう変えられないということも示している。


 「私って何」という疑問をきわめてうまく提示し、自意識の不確かさを表現した作品だろう。


《2007/06/11の記事を転載》