もう年をとったらこういうことは書けない。僕たちは限定された不完全な認識の中で、世界を生きることしかできないのだ。

この世に真実なんてない。正しい見方なんてない。正しい感情なんてない。正しい判断なんてない。


人間の認知能力には限界がある。人間社会の探査能力には限界がある。


僕は、限られた情報の中でしか生きられないんだ。限られた側面の中でしか生きられないんだ。


僕は、人間は、常に情報に囲まれて生きている。けれども、その情報は嘘っぱちだ。いや、嘘と言わないまでも、いい加減でかたいっぽな側面でしかない。


ものごとに正しい感情を抱く。自分に素直な感情を抱く。自分に素直な見方がしたい。自分に素直な判断がしたい。自分に素直な真実を見つけたい。


けれども!


僕が接する物事は常に側面だ。ホントは全ての側面を、全ての事情を、全ての関係者の気持ちを立場を、全ての状況を理解したい。
自分が信じたいことだけじゃなくて、自分が信じたくないことだって。それが真実ならば、僕はそれを認識して理解したいんだ。
Aの事情もBの事情もCの事情も。Aさんの立場もBさんの立場もCさんの立場も。AからみたりBからみたりCからみたり。Aの状況もBの状況もC状況も。
じゃあないと、自分に素直な感情を抱いたりできるものか。自分に素直な判断なんてできるものか。


でもそれは不可能なんだ。どんなにあがいて苦しんで、地獄の底から手を伸ばして、泣き叫んで、ちょうだいちょうだい言ってもできないんだ。


時間の制約があって、僕はある物事に対する全ての事情を把握することはできない。時間だけじゃない。距離の制約があって、人間関係の制約があって、興味の制約があって、ジャーナリズムの限界があって。
なにより、人間の認知能力の限界があって。
僕のちっさな脳みそと知覚機能じゃ全部把握するなんてどだい無理なんだ。


とどのつまり、ぼくはどうしたって、全ての事情を把握することができないんだ。


膨大な情報に接してはいるけれど、それは常に、物事の側面でしかない。僕は物事の側面に囲まれて生きている。否、物事の側面に閉じ込められ押し込めれて生きている。


けれども、そのなかで、感情を抱いたり、考えを思いついたり、判断してるんだ。
そんなの嘘っぱちだ。そんなぼくじゃない。
しらないしらないしらない。
なんで、僕は全ての状況を把握できないんだ?


そんな不完全な、かたいっぽな情報に接してる。そうして息をしてる。
全部がそうだ。僕の身の回りにある全てのものごと。新聞に書いてあること。僕の周りの人たちのこと。全部そうだ。目に見えるもの。耳に聞こえるもの。心が触れるもの。全部全部全部、かたいっぽなことでしかないんだ。
そんなかたいっぽな情報から抱いた僕の感情は、かたいっぽなものにしかなりえない。そして、根源的に、僕は、かたいっぽな情報しか得られないときている。つまり、僕の感情や見方、考え、判断は、かたいっぽなものでしかないんだ。どうあがいても僕は、かたいっぽのままなんだ。


かたいっぽ!かたいっぽ!


不完全!不完全!


側面の!側面の! 檻の中!檻の中!