チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会
松永俊男 2009 朝日新聞出版

内容、背表紙より

ダーウィンの生涯は、イギリス・ヴィクトリア時代のジェントルマン(上層中流階級)の生活そのものだった。医師で資本家の父ロバートの下、ケンブリッジでジェントルマンとしての教養教育を受け、国教会の牧師になるつもりだったが、海軍の調査船ビーグル号に艦長の話し相手として乗船することになり、その機会に取り組んだ自然史研究によって、その一生は大きく変わる。帰国後のロンドンでの科学者仲間との交流から、進化論への歩みが始まる。ウェジウッド家のエマとの結婚や、その後の生活と研究は、裕福な資産に支えられていた。ヴィクトリア朝の世界帝国イギリス、その繁栄を担ったジェントルマン層、その一員だったダーウィンが、その時期に、その場所で進化論を生み出したのはなぜか。近年、進展著しいダーウィン研究の成果を織りこんで描くダーウィンとその時代。

感想

「進化論」といえば、遺伝子が発見されるなど、のちにさまざまな証拠を積みあげ、また生態学をはじめ進化の在りようの研究が精緻に進み、「進化生物学」として現在昇華し、呼ばれている。しかし進化論の功績はそれだけではない。自然選択、適者生存といったかわりゆく環境への対応を解いた進化論のアイデアは心理学や社会学に広く応用された。社会学への応用は社会進化論として負の側面も生んだが、慎重にあつかえば、心の神秘のベールをはぎとり、よりよい社会を考えるヒントともなる。

そんな進化論がダーウィンによってどのように発見され、理論を深められたのか。そして社会は進化論をどのように受容していったのか。本書を読んで勉強になったことなのだが、ダーウィンは自然選択というアイデアを長いあいだあたため、既存の研究と合わせて発展させ、証拠をよく集めるなか発表している。天才のぱっとした思いつきではなく、天才のひらめきと天才の地道な研究のうえで、『種の起源』は世に問われたのだ。

本書は副題にもあるように、七つの海を支配し世界経済をリードしていたイギリスの、「ジェントルマンの社会」の一端をのぞくものにもなっている。というのも、イギリスの発展を中心的に担っていたジェントルマン社会(地主、法律家、医師、高位聖職者、大商人、銀行家、証券保有者など)の豊かな財力によってダーウィンの研究は支えられ、発展したからだ。
例えばダーウィンの人生を変えることになったビーグル号航海は、ジェントルマンの意欲と財力に支えられるとともに、イギリスの政界戦略の一翼を担うものだったという。またダーウィンの研究に協力者したフッカーは、植民地の農林業に寄与することが重要な任務であるキュー植物園を管理していた。
種の起源』はダーウィン個人のものであると同時に、ヴィクトリア時代のイギリスの国力が生み出したもの。と作者は述べている。

メモ

・ビーグル号航海後のダーウィンは地質学者として活躍。
ダーウィンは地質学や植物学、動物学の研究者としてそれぞれの分野に大きな業績を残した。

ダーウィン家は縁者に医師や研究者、実業家を輩出してきたイギリスの豊かなジェントルマン層に位置する。一家は膨大な資産をもっていた。

・「ダーウィンエジンバラで地質学の基礎を学び、無脊椎動物の研究に着手し、進化論についても見聞きしていた。世紀を代表するナチュラリストとしての基礎は、エジンバラで培われた」

ダーウィンのビーグル号航海は、父がその実費の一部を払っており、多額の経費がかかった。ビーグル号の航海自体もその船長の個人的負担に支えられており、ジェントルマンの意欲と財力がもたらしたもの。

ダーウィンガラパゴス諸島で進化論に思いいたったのではなく、その後ロンドンに住み、新しい研究成果や生物学思想に触れ、進化論に転じた。

・「枝分かれ的進化」と「自然選択」は、ダーウィンが初めて確立した考えで、大きな功績の一つ。ラマルクやチェンバーズも進化論を主張したが、それは、つねに原始生物が自然発生しており、原始生物はそれ自身に内在する力によってしだいに高等なものに変化する、というもの。

・当時、繁殖で動物の個体が増えるも、優れた個体だけが生き残っていく、という考え方はありふれていた。しかし、優れた個体だけが生き残っていくゆえに、「種」が一定に保たれると考えられていた。
それに対し、進化の推進力と解釈し直したのがダーウィン自然選択説

ダーウィンは収入を得るために働いたことは一度もない。余裕のある資産を株や債券で運用し、大きな利益を得ていた金融資本家。ダーウィンは経済界の動きをよく把握し世俗的な関心を持ち続けながら、並はずれた研究成果をあげた。

ダーウィンは当初、自然状態での変異はまれであり、異常な環境下に置かれている飼育栽培動植物では変異が多発する、と主張していた。しかし蔓脚類(フジツボなど)の研究を通し、自然界でも変異がありふれていることに気づいた。この発見は『種の起源』の前提になった。

ダーウィンはハトの飼育実験を通して、枝分かれ的進化と自然選択を確認。

・『種の起源』は自然神学のなかに位置づけられており、ダーウィンは本気で、自然選択を神の設定した法則とみなしていた。しかし『種の起源』第4版を出版するまでには、自然選択は無方向の遺伝変異がもとで、かつ種の利益だけを増進する利己的な面のあることから、神と無関係な自然現象とみなすようになり、完全に信仰を捨て去っていた。

ダーウィンとウォレスの違い。
ダーウィンは自然選択と姓選択と獲得形質の遺伝を認めていた。また自然選択は自然現象と考え、さらに人間の進化も基本的には自然選択によると考えた。
一方ウォレスは自然選択のみを認めていた。自然選択は神の手段とし、さらに人間は進化論の例外であり、物質世界とは別の精神世界が付加されたもの、と考えた。