和歌とは何か

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和歌とは何か
渡部泰明 2009 岩波

内容、カバー折口より

たった三十一文字の歌のなかに、枕詞や序詞など、無用ともみえるレトリックが使われる理由とは? 答えのカギは、「演技」という視点にあった―。身近な疑問を入口に、古典和歌の豊富な具体例をあげながら、千三百年も続いてきた文学形式の謎に真っ向から取り組む。歌の言葉と人が生きることの深いかかわりを読み解く、刺激的な一書。

感想

たいへんためになる本だった。和歌の修辞技法の効果について論じ、また和歌は種々の感情を「演技」したものである、という視点から新たな見方を提示する。和歌の修辞技法について説明した本は多かれど、その「効果、働きを論じる」レベルで述べた本は意外に少ないのではないか。また、和歌には己が感情をオーバーに表現することも多いが、「演技」されたものである、という視点でもってよめばストンと胸におちて鑑賞できる。

和歌をよりよく、より深く読むうえで、このような知識は欠かせない。いにしえより伝わった和歌を自分なりに詠み深め、そして味わう。それは教養を一歩一歩具体化し、教養をその個人のかたちにしていく作業だと思うのだが、その土台の一つとなる本だった。

また皮肉屋の僕にとって以下の指摘には反省させられた。
「身をもってくみとめる人の営みがなければ、伝統は容易に本来の姿を表さないだろう。伝統は営みに支えられている。いや、営みに宿っている。」
「伝統とは無数の営みの連鎖のことだ。和歌は確かに千三百年以上前から続いてきたが、それはただ続いてきたというだけではない。現実には縁遠いものだったかもしれない和歌の心を、自分の本当の気持ちであると引き受ける営みの中で生き続けてきた。その営みの重みと質感をしっかりと感じ取りたい。」p18

私自身、和歌を読んでいてもオーバーな表現や気どった表現、きてらった表現に興ざめすることがたびたびあった。しかし、和歌で詠まれている感情に寄り添おうとしたか。著者の指摘するようにまずはそこを出発点にしてみよう、と思った。

メモ

・枕詞、序詞、掛詞、縁語、本歌取りといったレトリックが、和歌を和歌らしくさせてきた。

・和歌は場に応じて「演技」されたものである。そうして求められる感情を大げさに詠んだり、機知に富んで詠んでみせたものであるという視点をもとにすると読解が進む。

「本書でいう演技は、言い換えれば、本当の気持ちを探し求める営みのことである。そして本当の気持ちを間違いなく自分のものだと引き受けようとする努力のことでもある。その上で、和歌は言語による演技である、と考えたい。そういう見方をする最大の利点は、歌の内容だけに閉じこめられる息苦しさから解放されることである。桜が散るのが悲しい、秋の夕暮が侘しい、恋人の心変わりが恨めしい、そういう和歌が、いったいこれまで何十万首詠まれてきたことか。目新しさなど、とっくになくなっている。しかし、それぞれの演じ方が違うはずだ、と見直してみると、私たちは意外と新鮮に、その演技を味わうことができる。」p16

・和歌には基本的に敬語が使われない。現実の生活語からは超越した特別な役割の与えられた言語であることのあらわれ。

・枕詞は、5音・7音というまとまりによって音調の山場をつくりだし、そのなかで次にくる言葉をうやうやしく引き出し、前面に押し出す働きをする。

・序詞は、歌の場面や環境に関わりのある景物をはじめにえがき、それに寄せて感情を歌う、という働きがある。よってはじめにえがかれた情景はある種の懐かしさをかもし出す。

・掛詞には二重の意味がかけられているが、本来その2つのヨミが重なっているのは偶然に過ぎないこと。しかし31音という制約のなかで決着に向かって和歌は詠まれるので、その偶然はあらかじめ決まっていたかのような運命を感じさせる。

・平安貴族の住む平安京は盆地。「難波」は芦の生い茂る見渡す限りの湿地帯であり、おまけに遠くに船出する地でもあった。難波はエキゾチックな語感に富んでいた。

・屏風歌や障子歌は、平面に過ぎない絵に躍動感を与えるため、音を詠んだり、風といった動きを詠んだり、あるいは風景のなかに登場人物として入りこんだりして、絵に奥行きを与えて立体化し動的なものに変化させようと工夫する傾向がある。