隼人の古代史

隼人の古代史
中村明蔵 2001 平凡社

内容、カバー折口より

古代の南九州には隼人と呼ばれる人びとがくらしていた。彼らは『古事記』『日本書紀』にも登場し、古くから知られていたが、ヤマトとは異なる社会の実態や、その系統などは謎につつまれている。北の蝦夷と同じく、しばしば中央政権に抗いながら、ついには同化されて歴史の表舞台から消えていった隼人の史実を追い、その文化や社会、律令体制の中での抵抗の姿、南島との関わりなどを明らかにする辺境の古代史。

メモ

薩摩国大隅国は、平地は今でも少ないが、古代はより一層少なく稲作に不適な土地柄。その証拠に、稲作の伝播は比較的早かったにも関わらず、弥生時代の遺跡は小規模にとどまる。

○鹿児島県において高塚古墳が分布しているのは、肝属川下流域と北薩。どちらも大和王権と結びつきの強い土地。高塚古墳は大和王権の影響を示すもの。
肝属川流域の大隅直一族は、日向の諸県君一族を通じて大和王権と結びついていた。北薩にある出水も古くから肥後の勢力が伸張していた。

なお、錦江湾沿岸一帯には、ほとんど高塚古墳はみられない。

○クマソは現在の霧島市(かつての曽於郡)を指しており、肥後の球磨地方を指していないと考える。クマは勇猛さを示す接頭語。
 理由1:「ソ国」として単独で用いられることがある。
   2:肥後の球磨地方と大隅の曽於地方は1000メートル近い山なみでさえぎられており、水系も異なる、古墳の分布も異なる。両地方はそれぞれ別の社会的文化的要素をもっていた。

○天武朝期に、大隅隼人と阿多隼人は飛鳥まで朝貢していた。その際に、服属を示す儀礼も。

○714年、大隅国豊前国の民を約5000人移住させた、という記録が残っている。その結果だろう、大隅国桑原郡には豊前国に由来する郷名がいくつか残っている。
朝鮮半島由来の神を祭る神社、韓国宇豆峯神社などが残っており、渡来系の民が殖産興業のため多く移住させられたのだろう。桑原郡の「桑原」もそこからきていると考えられる。
式内大社の鹿児島神宮は、もともと隼人の神域に、豊前の八幡信仰を習合したものだろう。

薩摩国にも隼人の勢力をおさえるため同様の政策がとられたと考えられる。薩摩国府のあった薩摩国高城郡には肥後国の郡名と同じ郷名がいくつか残っている。

薩摩国大隅国全土に対する班田制の導入は他国に比べ遅れる(大和朝廷の勢力が大きかった薩摩国高城郡大隅国桑原郡は班田制が早くから行われていたか)。班田制が衰退しつつあった800年にやっと班田制が実施。同時に朝貢は停止。
班田制の導入と朝貢の停止は深く関わっていたか。

スカイコミュ注:著者やそこまで断定していなかったが、班田制を実施する(できる)ということが大和朝廷の正式な勢力範囲ということの証左か。よって班田制が導入できれば朝貢の必要はなくなる。

○736年度の薩摩国の収支決算書が残っている。それによると稲に対する粟の比率は他国よりもずっと高い。薩摩国はそれだけ水田耕作に向かない土地だった。畑地が多かったのだろう。班田制導入遅延の一因か。

薩摩国大隅国は国力として中国に位置づけられていたが、稲の収入の実態は下国以下。厳しい財政だった。

天平期の遣唐使が南東路という迂回コースをとったのは、唐に赴くという目的だけでは非合理的である。南島人の、大和朝廷への朝貢を促すという意図があったのではないか。

スカイコミュ注:「地名が語る鹿児島の歴史」の説とは異なっている。
その本によると、(遣唐使「南東路」整備と、隼人制圧、薩摩国多禰国大隅国の設置、南東への使者派遣といった出来事は時期的に同じである。隼人民族の影響力が強かった地域へ大和朝廷は統治を強化していったわけだが、遣唐使航路の必要性からすすめられたか。)と指摘している。

感想

○史料を中心に、探れる範囲で隼人の歴史を掘りおこし整理している。おもしろいのは中央に記された史料だけでなく、鹿児島に残る地名や神社の分布、古墳の分布からも、大和王権の勢力拡張や懐柔策がうかがえることだ。

○また以前から知ってはいたが、薩摩国大隅国全土をクマソあるいは隼人が支配していたわけではないことの認識を再確認した。史料や考古学資料によると、同じ鹿児島県内でも地域によって大和王権への対抗の度合いは変わってくる。

○さらに、クマソ=隼人ではなく、特に「隼人」についてはどこの人々を指すのか、丁寧に推論していかないと議論がめちゃくちゃになりそうである。

○本書では、奈良時代における薩摩国大隅国の稲作収入の低さを紹介していたが、現代でも他国の広大な平野部と、鹿児島の狭隘な平野部を見比べるにつれ、その実感はうんうんうなずかされる。少なくとも「稲作」という基準では貧しい国なのだ。

そんな鹿児島県が他国に比して輝いていた時代。それは豊かな狩猟採取漁撈に支えられた縄文時代。そして室町時代以降少しずつ進んできた市場社会、つまり交易、商業が富を生み出すようになった時代だろう。幕末では外国との数少ない接点として、武力の面でも技術の面でも外交の面でも明治維新の立役者となった。

私のふるさとである鹿児島県。その生きる道は、ここにこそあると思う。