信長とは何か

信長とは何か
小島 道裕 2006 講談社

内容、背表紙より

「武」の人信長。「力」のみを信じ、戦国大名でただ一人、天下統一をめざした男。だが「力」に拠るものがいずれ「力」に倒れるのは必然であった。天下統一は必要だったのか?その日本史上の意義とは何か?「信長」を根本から問い直す画期的論考。

メモ

○戦国時代は、戦乱で疲弊しきっていたわけではなく、市場社会の発展にともない経済が非常な勢いで上向き、各地域の力が充実した時代。力を付けてきた地方社会は、全国的な求心構造に依存するのではなく、地域経済圏を前提とした新しい体制を模索しはじめた。p108

○信長の生涯からは、既存の権威へ反発すると同時に、ときに権威を受容してみせるという行動が繰り返しみえる。権威を受容することで自らの権威を高める一方、逆に既存のやり方を破ることで自らが新しい権威になることが可能となる。p16

室町時代、大名の館は平地につくるのがスタンダードだった(花の御所)。しかし、戦争の増加のため16世紀半ば頃には、大名の居城が山にあがる傾向が顕著になっていく。そうして軍事機能の強化と家臣団の集住が進められた。p44

○城の防禦された出入口である虎口は、当初まっすぐ入っていく形だった。しかし徐々に複雑化していった。城の防御技術は、戦国時代末期30年ばかりの間に、恐ろしい勢いで進歩した。

○「楽市楽座礼」は城下へ商人の集住をねらって発せられたもの。p77

安土城は他の戦国期の城と比べ、中心がはっきりしているところに特徴がある。p160

武家屋敷を城下に集めることはできるが、城主と基本的に主従関係のない商工業者を城下に集めるのは本来難しい。安土城武家屋敷と、この商工業者の集まる町を結びつけたところに画期性がある。p170

織田信長は家臣を、土地から切り離すことで自分の領地を基盤とする地域の有力者でなくし、純粋な武士として信長に仕えることを要求した。p145、p173

○信長は政権といえるだけの組織を何も作ろうとしておらず、すべてを信長が決裁する体制を続けていた。

感想

○信長の興隆や歴史的意義を、地域が力をつけつつあった戦国時代の社会状況をふまえて考察した本。
勉強になる本。

○著者は次のようなことを述べていた。織田信長がめざすような天下統一というかたちで中央集権化をはかるのではなく、近代にいたるまで小国家が分立していたイタリアやドイツのように中央に強力な政府がなくそれぞれの地域がそのまま成熟していくという道もあったのではないか、と。
今まで考えたことのなかったおもしろい視点だなあ、と思った。

○ただ、この点について、あれ?って思うところがある。それは織田信長以降のことだ。織田信長は確かに中央(自分)に権力が集中した政治体制を目指していたのだろう。けれども、その後わちゃわちゃあって成立し、その後、非常に長きにわたり権力を掌握することに成功した江戸幕府は、藩内のことは各藩に任せていたわけで、まさに著者の指摘する「それぞれの地域がそのまま成熟していく、という道」p218は実現していたわけだ。その点、著者の指摘は、江戸幕府の礎となった織田信長や戦国時代末期の政治状況にいうのは筋違いだろう。中央集権化を強力に推し進めた明治政府にいうべきだ。

そうしてそう考えていくと、ドイツやイタリアの状況はよく分からないが、帝国主義もりもりの列強が林立し、日本に迫っていたあの明治時代、地方が力をもつ悠長な政治体制がとれたのかかなり疑問ではある。