でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相

でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相
福田 ますみ 2007 新潮社

内容(出版者ウェブサイトより)

第6回新潮ドキュメント賞受賞。教師が指弾された自殺強要、虐待、誹謗中傷は、すべて濡れ衣だった。
「早く死ね、自分で死ね。」2003年、全国で初めて「教師によるいじめ」と認定される体罰事件が福岡で起きた。地元の新聞報道をきっかけに、担当教輸は『史上最悪の殺人教師』と呼ばれ、停職処分になる。児童側はさらに民事裁判を起こし、舞台は法廷へ。正義の鉄槌が下るはずだったが、待ち受けていたのは予想だにしない展開と、驚愕の事実であった。第六回新潮ドキュメント賞受賞。

メモ

○「 3年前、“史上最悪の殺人教師”を求めて、私は取材を始めた。しかし、追いかければ追いかけるほど、この凶悪な教師の像は逃げ水のように消え失せてしまい、代わりに現れたのは、マスコミや世間の白眼視に身を縮ませる善良な一人の教師の姿であった。
 子供は善、教師は悪という単純な二元論的思考に凝り固まった人権派弁護士、保護者の無理難題を拒否できない学校現場や教育委員会、軽い体罰でもすぐに騒いで教師を悪者にするマスコミ、弁護士の話を鵜呑みにして、かわいそうな被害者を救うヒロイズムに酔った精神科医。そして、クレーマーと化した保護者。
 結局、彼らが寄ってたかって川上を、“史上最悪の殺人教師”にデッチ上げたというのが真相であろう。
 言い換えれば、バイアスのかかった一方的な情報が人々を思考停止に陥らせ、集団ヒステリーを煽った挙げ句、無辜の人間を血祭りに上げたのである。」p248

○「川上教諭に降りかかった災難は決して他人事ではない。“子供という聖域”を盾に理不尽な要求をする保護者が増え、それとともに、教師がますますものを言えなくなる状況が続けば、容易に第2、第3の川上が現れても不思議はないからだ。」p253

感想

○苛烈な体罰が行われ、被害児童はPTSDを発症した、とする事件。体罰を行ったとされる教師の言い分は全く顧みられず、保護者の主張ばかりが流布される。その教師は、保護者との関係を保ち問題を学校内で納めようと、事実でないことについても抗弁せず保護者の主張にそって謝罪してしまった。このことが後々まで尾を引いてしまっている。この学校内の雰囲気は僕もよく理解できる。非常に危険な空気だ。
そして、マスメディアをはじめとする苛烈なバッシング。

教師は反論する勇気を得て、裁判ではほとんど自分の主張を認めてもらえた。つまり司法的にはいわゆるモンペの詭弁が認定されたわけである。

本書は、保護者の主張に沿った一方的な報道を行った記者への取材も試みているが、記者は逃げているとしか思えないおざなりの対応だった。自らの報道について、反省も含めた続報をきちんと行っているのだろうか。本書ではそこまで指摘されていないけれど、はなはだ疑問である。
記者たちの言っている、〈教育委員会体罰を認めていたから〉という釈明も、まあ、いいわけじみたものだ。
  〈お上が言っているから〉
そんな言葉、これだけ人の人生を破壊し、本人の精神を傷つけ、さらには家族にまで被害を及ぼした以上、通用するものではない。そもそもいいわけとしてそんな言葉を吐いたら、メディアのメディアとしての存在価値はない。

自らの報道姿勢を解明するとともに、教師に対し、一方的な主張に基づいて報道してしまったこと、そのせいで大変な被害を与えたことを、しっかり謝罪すべきである。それを行ってからこそ、信頼あるメディアとしての一歩が踏み出せるのではないだろうか。

○裁判である程度詭弁が認定されたのでモンペと称するが、今回、体罰を行ったとされる教師の主張の多くが認められたのも、モンペの主張があまりにいい加減で支離滅裂だったからだと思う。逆にいうと、モンペが上手に詭弁を弄した場合、本書の例示のように教師の主張が認められたのだろうか? 教師の主張と保護者・児童の主張が公平に審査され、審判が下されただろうか?

痴漢えん罪が問題になる昨今、非常に疑問だ。非常に不安だ。

弱者が不平等に保護される実態がないだろうか。

○保護者の主張の疑問が追究され、そして本書のような当初のマスメディアと全く逆の主張を著したものが出版されたのも、言論の自由が認められているからである。つくづく、言論の自由が保障された日本でよかった、と思った。

○筆者は、周囲への聞き込みや問題とされた教師に長時間話を聞くことができたので、先入観を払拭して事件を追いかけることができたという。そして「この幸運がなければ、私もまた、川上を体罰教師と決めつけた記事を書いていたかもしれない。その差はほんの紙一重だ。」と述べている。川上氏への異常なバッシング。これを整理し、疑問をいだき、問題点を追求した著者ですら、自分と異常なバッシングを行った者との差は紙一重であるというのだ。
教師への苛烈なバッシングを批判する著者がそう言うのである。その指摘は重い。

人はバイアスに流される。周りの空気にのみこまれて事実関係を疑いもせず誰かを糾弾してしまうも。自分もよくよく注意せねばなるまい、と考えさせられた本だった。