出雲大社 日本の神祭りの源流

出雲大社 日本の神祭りの源流
千家 和比古 (編集), 松本 岩雄 (編集)

内容(出版者ウェブサイトより)

その容貌を様々に変化させながらも鎮座しつづけてきた出雲大社。考古学・古代〜近世史・民俗学・宗教学・植生景観史などの研究家たちが、遷宮を機に日本の神祭りとは何かを探る。

感想

○日本屈指の古社の一つである出雲大社を論じた文章を集め、複数の視点から多角的に出雲大社を読み解こうという本。

出雲神話といえば、大和王権のあった大和からすると相当離れた地方の神話のはず。しかしながらよく知られているように、大和王権が編纂したであろう日本神話のなかでその多くが取り込まれ、圧倒的な地位を保っている。そういう面で出雲は、日本神話のふるさと。大和から見た神々の土地ともいえよう。

出雲のその特異な地位を知ることによって、日本神話やアニミズム的考え方を学び、深めることができると思う。本書はその一助になる。

○本書を読んで、出雲神話の精神的中心に位置する出雲大社が、今でも特異な祭祀を保持していることを知った。

メモ

○出雲地方からは全国屈指の量の銅鐸や武器型青銅器が出土。
なお、全国から出土している銅鐸、武器型青銅器はすべて弥生時代のものであり、その次の時代である古墳時代のものはない。突然、その痕跡が見られなくなるということで、弥生時代から古墳時代にかけて祭祀の在り方が急変したか。

出雲大社は、明治5年以前は「杵築大社(きづきのおおやしろ)」と呼ばれ、また日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と称されていた。

出雲大社の本殿の造りを「大社造」という。
大社造は木の柱が「田」の字形で9本、配置されている。
また、出雲を中心とした地域に限られており、地域色の強い社殿形式。
少なくとも8Cには成立していたと考えられる。

○「神話とは天・地、山川海が生み出す自然の中で人々が織り成した生活、そして自然に抱いていた畏怖のこころが「湧出」してきた物語」

出雲大社境内からは古墳時代前期末の祭祀遺物が出土。その時代から現在にかけて出雲大社とその周辺は祭祀空間として意識され祭祀が行われてきた。

○出雲の玉作りについて
 →弥生時代前期に全国でもいち早く玉作りが行われた。
 →古墳時代になると種々の材料で勾玉がつくられ全国に流通。
 →古墳時代中期後半〜後期前半にかけて出雲や北陸の工人が大和へ移動して玉生産に携わっていたか。
 →6世紀中頃以降は玉を独占的に生産し、全国に供給。(8〜9Cまで続いた)

○大和からみて太陽の昇る東に位置するのが、皇祖神を祭る伊勢神宮
その反対に太陽の沈む西に位置するのが出雲大社

8C以降は中国の影響を受け律令国家的な南北が軸の世界観が中心となってくるが、それ以前は太陽の運行に注目する東西軸の方位観だった。

○国譲り神話からうかがえるのは、オオナムヂに関わる霊力を大和王権が継承するということ。

出雲大社古事記日本書紀出雲国風土記にその創建の由来や建築の具体が記されており、一神社が詳述されていることはまれ。古代人にとって出雲大社の創建と社殿建築の有り様は特筆すべき事柄であった。

出雲大社の社殿は、巨木を三本束ね一柱とした(その直径3㍍)の図面が残るとともに、実際にそれが出土。伝承によると約48メートルの高さがあったという。