宗像大社・古代祭祀の原風景

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宗像大社・古代祭祀の原風景
正木 晃 2008 日本放送出版協会

内容、カバー折口より

国宝8万点が発見された海の正倉院の謎に迫る。
今も日々の祈りが絶えない沖津宮中津宮辺津宮(宗像大社)は、農耕儀礼が中心の神道には珍しく、豪壮な「みあれ祭り」など、海洋漁労文化が花開く異色の神社である。
沖ノ島の中腹に鎮座する13の巨岩には、23の古代祭祀の遺跡が集中。当時、垂涎の的だった大量の銅鏡や鉄鋌をはじめ、中央政権の古墳をしのぐ超一級の遺物が出土。
その数は国宝に指定されたものだけでも8万点を数える。遺跡には4世紀後半から10世紀の祭祀の痕跡が歴然と残り、およそ600年間に、岩上から露天へと祭祀の場も形態もその目的も大きく変容したことを、雄弁に物語る。朝鮮半島・中国への玄関口であり、祖国防衛の宗教センターとして、宗像大社の果たす役割は何か、どのような祭祀が行われていたのか? 
チベットなど世界の密教遺跡を踏査した経験、数字に及ぶ学術調査の成果を援用しつつ、宗教学の異才が、古代日本最大のミステリーに挑む。

感想

○長期にわたる祭祀の痕跡を残した極めて貴重な遺跡群。岩の上やその周辺に祭祀器具が残っていたのであり、通常だったら後生に残りようがないものだ。「沖ノ島」という神格化され、禁足地とされた離島だからこそ、それらが残りえたのだろう。極めて極めて異例で貴重な遺跡群だ。

○私は、宗像大社にもその神宝館にも行ったことがある。古代祭祀の形跡を色濃く残す、素晴らしい神社だった。またその神宝館は沖ノ島の出土品を置いており、そのほとんど全てが国宝。こんなに国宝がおいてある博物館はないのではないか。古代祭祀にふれるうえでも、また単純に意匠を見るうえでも、素晴らしい品々がずらりと並んでいて、その偉容はすさまじかった。訪ねたのは一年以上前だが、曇りなく輝く金の指輪や、立派に肥えた子持勾玉、精緻なミニチュア布織機、今でも鮮明に覚えている。

沖ノ島祭祀遺跡は日本と朝鮮半島の接点にある。その研究は、大和王権朝鮮半島諸勢力の力関係や外交関係を明らかにするうえで重要だと思う。
本書によると、最初期の沖ノ島祭祀遺跡は大和王権由来の品々が多く出土し、時代を経るにしたがって朝鮮半島由来のものが増えてくるという。また、最初期の出土品は畿内の大型古墳の副葬品に似、かつ規模も匹敵するという。また、遺跡は全て日本を向いているという。

このあたりの事実から、大和王権朝鮮半島諸勢力の外交関係についてなんらかの推測ができそうではある。

最初期の遺跡は、古墳時代4C後半〜5Cのもの。
大和王権屈指の祭祀品が見つかったということは、大和王権が非常な重きをおいて沖ノ島を見ていたということだろう。極めて注視していたわけだ。当初、大和王権由来の出土品が多いということは、大和王権そのものの力を誇示したかった? だんだんと朝鮮半島由来のものが増えたのは、誇示する必要が薄れてきたということだろうか。つまり、朝鮮半島側の領地を手に入れたか、あるいは朝鮮半島の勢力と融和が進んだか。

沖ノ島は、まだまだ発掘調査を進める余地があるようだ。遺跡の保存のためにも、祭祀の内実を明らかにする上でも、もっともっと調査を進めるべき、と思う。

メモ

沖ノ島は4世紀後半〜10世紀初頭まで約600年間にわたり、祭祀が営まれ続けた。祭祀の内実を伝える膨大な遺物が出土。その八万点が一括して国宝に指定された。沖ノ島を抜きにして古代祭祀を語ることは不可能といっていい。

沖ノ島の地理について。
 →沖ノ島の南には岩礁が複数つきだしている。沖ノ島に上陸するときはその岩礁のあいだを通り抜けていく。
 →表層は石英斑岩。白く風化しやすく崩壊しやすいため、山中のいたるところに巨大な岩がまるで白骨のように露頭し、荒々しい雰囲気。
 →こうして島全体が白っぽいため、はるか遠くからでもよく見える。海上を航行する人々にとって目立つ島。真水も湧く。現在は海が荒れたときの避難場所として機能している。
 →岩上祭祀が営まれた岩は、南側が高くなっており、玄界灘に繰り出す船のようにみえる。

縄文人について
 →イノシシとヘビをモチーフにした縄文土器の動物装飾が飛び抜けて多く、この二つは神聖な動物とされたか。
 →一方、シカをあがめていた形跡はあまりない。

社務所前遺跡(沖ノ島縄文時代)について
 →ニホンアシタカの骨のみが大量に出土。祀られていた?

縄文時代の出土品を見ると、縄文時代沖ノ島に渡来してきたのは、主に北九州沿岸部の人々。ただし、中期に限り、瀬戸内方面から渡来してきた人々がいた。
沖ノ島からはニホンアシカの雌や幼獣の骨が大量に出土。モリやヤス等は発見されていない。縄文人ニホンアシカをとりにきていた可能性が高い。

沖ノ島の最も古い祭祀遺跡の一つとみられる17号遺跡からは、21面もの鏡をはじめ、大和王権のシンボルである鏡、玉、剣が出土。古墳時代前期、畿内の大型古墳の副葬品と似ており、質と量で匹敵している。これら出土品は鏡や子持勾玉をはじめ、大和王権の遺物であり、畿内のものと考えられる。

沖ノ島では古墳の葬礼に非常に近い祭祀が営まれた。

当時の日本は、死者の霊魂をしずめる「葬」と神を祭る「祭」が区別されていなかったか。「葬祭未分化」状態だった?

沖ノ島の祭祀遺跡は宗像大社の方向を向いている。あるいは大和か。朝鮮半島を向いているものは無し。

沖ノ島祭祀遺跡について
(1)古墳時代
 ①岩上祭祀
  岩の上に臨時の祭壇。中央に榊などを立てる神籬をもうけ、様々な雛形品を岩にかけたり榊につるしたりして、垂直降臨タイプの祭祀が営まれたか。
  舶載鏡、ほう製鏡、装飾品、鉄てい、滑石製品、鉄雛形品など。
 ②岩陰祭祀
  舶載を含む武器、馬具、装飾品、工具、カットグラス、金属製雛形品、土器など。

(2)律令時代
 ③半岩陰・半露天祭祀
  金属製雛形品、金属製人形、唐三彩、土器。
 ④露天祭祀
  土器、滑石製形代、皇朝銭など。

初期の出土品は大和王権に由来するもが多い。時代を経るにしたがって百済を中心とする朝鮮半島に由来ものが増えてくる。

律令時代の沖ノ島の祭祀の目的は、主として遣唐使の航海の安全を祈ることにあった。ただ最末期は新羅海賊に対する対策への祈り。

○宗像氏について
 →海上交通や釣川流域の穀倉地帯をおさえた豪族。大和王権と強く結びつく。
 →平安後期も宗像大社の「神官領主」として生きぬく。日宋貿易に深く関わった。
 →鎌倉時代御家人
 →室町時代は周防を根拠地にした大内氏の傘下に。
 →秀吉の時代には、秀吉に領地を認められず宗像氏の家臣、宗像大社の社人は離散。

○「古代にあっては、協力関係の締結は、現代のように、契約書を取り交わすことではなかった。よく見られたかたちは、相手の祀る神々を、自分もまた祀るという行為である。
 宗像氏と大和政権のあいだでも、この方式が選ばれた。すなわち、宗像氏が祀る三女神を大和政権も祀ることで、両者の協力関係が成立した。その証拠に、沖ノ島の祭祀遺跡からは、明らかに大和政権が自分たちの地域で祭祀に奉献していた品々が、出土している。」p93

第二次世界大戦の敗北後、宗像大社沖ノ島も、海のかなたから押し寄せる敵の討滅という役割を、ほぼ失った。しかしそのことによってかえって、古代以来の重いくびきから解放されることによって、漁労の糧を願うという縄文時代以来の素朴で純粋な祈りに立ち戻ってきた。

宗像大社辺津宮にある、神が降臨した場とされる「高宮」は、中世にあっては十数体の神像がにぎにぎしく祀られていた(彩色されたものも)。現在の神道の簡素にして平明というイメージとはほど遠い祭祀の在り方をとっていた時代があった。