異形の王権

異形の王権
網野 善彦 1993(初出は1980年前半がほとんど) 平凡社

内容、表紙より

婆娑羅の風を巻き起こしつつ、聖と賎のはざまに跳梁する「異類異形」、社会と人間の奥底にひそむ力をも最大限に動員しようとする後醍醐の王権、南北朝期=大転換のさなかに噴出する〈異形〉の意味と用を探る。

感想

○絵巻物における被差別民の様態を考察したり、特異な行動を多数行った後醍醐天皇を分析、また彼と「異形」の者たちのつながりを説こうとしている。

○正直いって、おすすめできる本ではない。
筆者の視点や問題意識、アプローチはおもしろいと思うのだが、いかんせん、こじつけが多い。
もちろん歴史に言及する以上、推測が入るのやむを得まい。証拠がかっちりとそろっていることはそうそうないだろう。

ただ、それにしても著者の推論は雑というか、よくわからない飛躍が多いのだ。

例えば、中世の史料において女性だけで旅行している事実がうかがえることから、性に奔放というか柔軟だったのではないか、という結論が導かれている。

もちろんセックスに対する意識は時代によって変わっていくとは思うが、こんなセンシティブな話題を非常に雑な議論ですませていいんですかねえ?

常識的に考えると遊女か芸者だと思うのだが……

こんなのがいくつかあると、もうそれで読む気力をなくしてしまう。

○本書の掲げている「異形」であるが、その内実がろくに定義づけられていない。被差別民やこれまでの歴史研究であまり言及されてこなかった人々を十把一絡げに「異形」のカテゴリーに放り込んでいるが、なんだかなあ。

こんな雑なカテゴリーだと、いちいちカテゴリーを作る意味あるのだろうか?、と疑問に思う。
確かにこれまで光が当たってこなかった歴史を明らかにし、歴史の重層性を高めるうえでは大事なんだろうけれど、それを「異形」とひっくるめるのはさすがに強引だと思う。そしてざっくりしすぎてカテゴライズする意味が無い。

さらにいうと、「異形」という表現には「普通」とはずれているという、世間の相当強い違和感の込められた表現だ。「異形」という表現を使うのならば、その対象がなぜ、どういう点で異形なのか、しっかり明らかにしていく必要があるだろう。

本書は、後醍醐天皇についてはその手続きを多少行っていたが、それ以外の人々についてはほとんど欠けていた。

雑な論考。

○筆者のいう「異形」たちについて、本書はちょこちょこその内実を明らかにしているが、本全体としてはまとまりに欠けていた。
私は本書を手にしたとき、「異形」に焦点をあてその一端を明らかにすることで、当時の社会システムの、何らかの一面を浮かび上がらせているのだろうと期待した。しかし本書は、そのレベルまでまとめられた本ではなかった。

○後こんなことを述べていて、
「人の心に、生きるための力、まさしく日々の生活を変革する力をよびおこしうるような力強い歴史を叙述することは、歴史学を学ぶものにとっての義務といわなくてはならない」p95

これに私は反対だ。歴史はあくまで事実を明らかにするものではないのか。もちろんその歴史というものはシステムとしての社会そのものではなくて、それを構成した人々の生き様や、逆にシステムからそれたり反逆した人々−−それは必然的に少数だろうが−−まで明らかにするものだ。
そうして重層性と多面性と、歴史的な継続性、あるいは強烈な断続をはらんだものである。

筆者のいうような視点が、歴史を追究していくことによって明らかになることも多々あろう。しかし、それはあくまで結果であって目標になってはいけない。筆者のいう「日々の生活を変革する力をよびおこしうるような力強い歴史」を目標としては、歴史研究をゆがめてしまう。人間の尊厳や勇気だけでなく、人間の残酷さや人間の限界、人間性の敗北すらをもはらんだもの。
それこそが、私たち不完全でときに愚かな人間がつぐんできた歴史であり現実ではないだろうか。