信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学
藤本 正行 初版1993 講談社

内容(裏表紙より)

織田信長は“軍事的天才”だったのか?桶狭間の奇襲戦、秀吉による墨俣一夜城築城、長篠合戦の鉄砲三千挺・三段撃ち。これまで常識とされてきたこれらの“史実”は、後世になって作られたものだった―。信長研究の基本にして最良の史料である『信長公記』の精読によって、信長神話と戦国合戦の虚像、それらを作りあげた意外な真実に迫る意欲作。

感想

○まず本書は、織田信長の足跡をたどる信頼できる史料として『信長公記』を、その種々の考察を行いつつ提示する。
織田信長は多くの逸話とともに世間に広く知られているが、その逸話は江戸時代に書かれた空想の多い「小説」が元になっている例が多いという。そのような逸話を、『信長公記』や戦国時代の軍事的常識、実際の地理を参考にしながら丁寧に廃していき、織田信長の実際の軍事的在り様を暴こうとする本。

とかく、盲目的に信じられている逸話を、信頼できる史料や当時の軍事的常識、実際の地理といった根拠を元に、もう一回見直しており、学問の進め方というか、根拠に基づいて歴史を探究していく姿勢や仕方を学ぶうえでも大変勉強になる。

○著者のいうように、信長は軍事の「天才」とまではいえないのかもしれない。しかし、その軍事の裏付けとなる経済を重視し、楽市楽座をはじめ多くの改革を行ったのは事実だ。また実際の軍事行動をみても、効果的に素早く軍を動かし、かつ相手よりも多くの兵士をそろえようとしている。軍事のセオリーに忠実にそった行動をとっていた、たといえよう。もちろんその評価は、多くの戦国大名の中で頭一歩ぬきんでる結果を残したことを考えれば、そうそうできることではなく、高く評価できるものだ。まだまだ多くの因習に縛られた時代にあって、合理性を重んじそれを実行できた信長はやはり天才的なのだろう。

○信長の軍事的足跡を暴こうとする本書では、戦国時代の軍事に関する常識も多数紹介されていて、それも非常に勉強になるものだった。詳細は↓のメモの欄にて。

メモ

○(定説は有名であればあるほど、研究テーマから見過ごされてしまい、研究全体が停滞することがある。信長の軍事に関する定説もそう。軍事史の研究は遅れているし、それが歴史研究全体に影響している。)p3

○(信長の軍事に関する華麗な定説は、近代日本の軍部の思想や用兵にも悪影響を与え、安易に奇襲作戦を立案させてしまい、情報、偵察、通信、補給、兵力の集中投入などといった戦術の基本をおろそかにさせた。)p111

○(『信長公記』の作者、太田牛一は織田軍の第一線の戦闘員として実戦を経験しており、このことが合戦描写に臨場感と史料的価値を与えている。平和な江戸時代の小説家には考えも及ばない細かい目配りのうえ、要点を記している)p16

○(現在人口に膾炙している信長の逸話の多くは江戸初期に書かれた小瀬甫庵の伝奇小説、『甫庵信長記』が元。)p66

○(間違った通説が広まった理由について。
『甫庵信長記』の信長は、戦争の結果をもとにした合理性のある話――勝因がはっきりしている、合理的な行動は成功し非合理的な行動は失敗する――のため広く受け入れられ、そのまま史実とされた。明治時代になっても信長の足跡は批判的に検証されず。

なお、『信長公記』の信長は、しばしば判断を間違えたり、矛盾した行動を取ったり、部下の裏切りに気づかなかったり、軍事的判断を誤ったりしている。人間くさい。)p71

○(盛者必衰の戦国時代にあったからか、『信長公記』には運命論が通底している。)p72

○(桶狭間の戦いにおいて織田軍は奇襲作戦をとっていない。高いところに布陣している今川軍を、織田軍主力部隊が強襲したところ、今川軍は総崩れになった。幸運も大きく影響している。主力軍同士がぶつかり合う戦闘は珍しい。)第一章

○(戦国時代の大名は、自軍の損害について大変気をつかっていた。四方八方に敵がいたので損害を度外視して兵を用いることなどできなかった。)p114

○(信長は武力を背景として活発な外交戦を展開し、敵武将の裏切りを多数成功させた。また、政治工作が成功するや否や、それが敵の大将に発覚する前にすばやく工作に成功したところに軍を出動させ、裏切り工作を確かなものにするとともに安全にスムーズに侵攻したのが織田信長の特長。)第二章

○(豊臣秀吉が墨俣一夜城を築いたという史料的な裏付けはない。)第二章

○(損害が出るような戦いはできるだけ避け、放火や刈田、敵城近くに城(付け城)を築くなどして経済的・心理的に圧迫しつつ、裏切り工作をするのが戦闘のパターン。)p139

○(長篠の戦いにおいて、織田徳川連合軍が、鉄砲を3000丁準備して交互に射撃したという史料的な裏付けはないし、非現実的な戦法。
織田側が大量の鉄砲を準備したのは事実。1000丁+α?
織田側の勝因は兵力の多さ+強固な陣地を構築して迎撃したこと+別働隊で武田軍の退路の城を確保したため武田側が陣地に強襲してきたこと)第五章

○(本能寺の変の原因の一つ。信長が過去五年間に獲得した領地とほとんど同じ大きさの、旧武田領を一ヶ月あまりで手に入れたため、そこに武将たちをあわただしく派遣し、自身の周囲が手薄になってしまった。)終章

○「『信長公記』を読んで気づくのは、調略(skycommu注:裏切り工作のこと)と出動の関係、野戦と城の関係、橋頭堡と付け城の運用、補給路の確保と破壊、兵力の大量動員、土木工事の重要性、鉄砲の効果など戦国末期における軍事の基本的要素が活写されていることである。そして信長は、おおむねこの基本に従って行動している。」p297