日の名残り

超おすすめ!

日の名残り
カズオ イシグロ(著), 土屋 政雄 (翻訳) 原著1989 中央公論社

内容(「BOOK」データベースより)

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々―過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞ブッカー賞受賞作。

感想

○最初は図書館で借りたのだが、おもしろくまた感動したので文庫を買った。

○主人公のスティーブンスは優れた「執事」。ただ本書が舞台とする時代は、「執事」という職業がだんだん絶えていくときである。
時代が変わるとき。見方によっては古き良きイギリスの時代、貴族たちが屋敷で最高の歓待を受けながら政治を動かしていった時代が。
すべては主様のために、とする仕事ぶりは、執事は仕事ではなく「生き方」だとすら思わせるものだった。

○スティーブンスは物語冒頭で新しい主に困惑している。アメリカ育ちということからか、軽口、冗談が多いのである。
くそ真面目に生きてきたスティーブンスは、その軽口に返答すべきか本気で悩む。あるいは軽口の練習をしたり、あるいは周りを軽口で傷つけはしまいかと思索を重ねる。
この設定がまずおもしろい。

○スティーブンスが体現する執事は「生き方」だ、と書いた。
品格の重視、仕事への情熱。主人への絶対的忠誠。

それは一見誇り高き遂行なものに見える。しかしそれは、スティーブンスは言わないが、芸術的なまでに高度に洗練された身分制の発露ともいえるものではなかったか。
主人への絶対的忠誠は、スティーブンスに高度に内面化されていた。それはどういうことかというと、主人への忠誠心のあまり、主人は正しく良いものであるという見方に支配されていたのだ。そういう色眼鏡でしか世界を見れなかったのだ。そしてそのことをスティーブンスは巧妙に隠そうとしながら語る。主人の過ちを婉曲で遠回しな表現ながらもかばおうとする。

またそのいいわけがうまくておもしろい! スティーブンスのとりつくろいを楽しむ物語でもある。

読者は、語りを丁寧に読むことにより、スティーブンスによる主(ダーリントン)評と、世間のダーリントン評とのずれに気づくだろう。
かつその認識のずれを語り手・スティーブンスが隠そうとしていることにも。彼は「執事」という生き方に精神的にも囚われていたのだ。

○そう! 本書はこのように、語り手と世間とのズレを読みとり味わうことができる。そして語り手の見ている特有の世界を読みとり味わうことができる。
一人称小説の妙が存分に味わえるのだ!

一人称特有のごまかしは、スティーブンスの恋愛にも適応される。いや、こちらの方を主とすべきといってもいいのかもしれない。
女中頭としてヒロイン・ケントンが登場する。彼女と主人公は、会話やちょっとした行動をみるかぎり、互いに想い合っていたのだろう。
ケントンはおそらく意識的に、スティーブンスは無意識的に。
一方スティーブンスは、優れた執事として、自分のこともケントンのことも解釈していく。〈彼女の気持ち〉はおろか〈自分の気持ち〉すらも、「品格」、「執事」、「女中頭」というフィルターを通して世界を見てしまうがため、ついぞスティーブンスの目には写らないのだ。

このように語り手特有の世界を見るフィルターがうかがえ、味わえる一人称小説は最高だ!


○僕がスティーブンスにがっかりしたのが、ケントンに(スティーブンスのことが好きだった)、と言わせたこと。
自分から言うのか、それとも言わないのか、とドキドキしながら読んでいたけれど、結局相手に言わせていた。
「「「「「自分から言えよ!!!」」」」」

○むりにこの物語をまとめると、
むちゃくちゃ仕事ができるがゆえに、他人の気持ちを慮る必要がなかった主人公が、恋をして戸惑う話
、といえるのではなかろうか。

なるほどと思った他者の書評

日の名残り」では、スティーヴンスとミス・ケントンとのあいだのロマンスの行方というストーリーと並行して、スティーヴンスがかつて仕えた主人であるダーリントン卿のナチスへの加担というちょっと重い問題も扱われています。

ティーヴンスは、主人があくまでも善意の人として利用されてしまった、いわば被害者であると弁護することで、自らも薄々感じていたはずの、自分も間接的に ナチスへ協力してしまったのではないかという罪悪感をも棚上げしてしまうわけです。そんな彼が頼りにするロジックは、自分はあくまでも執事であって、主人の意向に従うのが職務であり、主人に対してあえて意見するなどというのは身分不相応なふるまいであるというものです。

今この時期にこの小説を読むと、ある種の「思考停止」とでもいうべき彼の態度からの連想として、どうしても原発の問題について考えてしまいます。

私は80年代に普通の人より少し長めの学生時代(モラトリアム!)をすごしたせいか、わりと普通に反原発の立場にシンパシーを持って、関連する本も多少読んだりしていました。

でもその後の20年あまり、多くの日本人と同様に、事実上忘れたふりをして生きてきたわけです。今回の福島の原発事故について最初に聞いたとき、86年のチェルノブイリの事故を初めて知ったときの「嫌な感じ」がそのままよみがえりました。その「嫌な感じ」には、大げさかもしれませんが、結局自分が何もしてこなかったという苦い思いも含まれています。

(中略)

あの作品では、自分の仕える主人への信頼を口実にして、自分も間接的にナチスに加担してしまったのかもしれないというスティーヴンスのひそかな疑念は、結局明らかにされることなく、あいまいに終わってしまうわけですが、このような「思考停止」をめぐる考察はまさに今日的な問題として、自分自身も含めて多くの日本人に共有されうるものではないかと思ったわけです。

「気ままにBOOK TALK」:日の名残り The Remains of The Day(3)
http://www.ourbooktalk.com/2011/05/remains-of-day.html