アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
フィリップ・K・ディック(著) 倉 久志(訳) 原作1968 早川書房

内容、ウィキペディアより

第三次世界大戦後のサンフランシスコを舞台とし、賞金稼ぎのリック・デッカードが、火星から逃亡してきた8体の人造人間を「処理」するというあらすじ。電気動物やムードオルガン、マーサー教などディック独自の世界観の上に描かれている。この世界では自然が壊滅的打撃を受けているために、生物は昆虫一匹と言えども法によって厳重に保護されている。一方で科学技術が発達し、本物そっくりの機械仕掛けの生物が存在している。そしてその技術により生み出された人造人間は感情も記憶も持ち、自分自身ですら自分が機械であることを認識できないほどのものすら存在している。主人公リックは、他者への共感の度合いを測定するテスト(フォークト=カンプフ感情移入度測定法)によって人造人間を判別し、廃棄する賞金稼ぎである。この世界での生物は無条件の保護を受ける一方で、逃亡した人造人間は発見即廃棄という扱いとなっており、主人公のような賞金稼ぎの生活の糧となっている。

感想

○この作品に登場するアンドロイド:「ネクサス6型」は高度に発達している。高度に発達したアンドロイドと人間との違いは何か? 人間の人間たるゆえんは?
本作では「生命」に対する感情移入の度合いに、それを見いだそうとしている。つまり、人間は人間自身はもちろん、動植物を含めた「生命」に同情し心を寄せる一方で、アンドロイドはそうではないというのだ。

ただし、人間らしいアンドロイドや、非情な人間の登場により、主人公で逃走アンドロイドハンターの「リック」の考えはときに揺らがされる、という物語になっている。最後には、アンドロイドが蜘蛛の脚を切って遊ぶ描写があるので読み手は、(やっぱアンドロイドって生命に対する共感の気持ちがないんだなあ)、となるだろう。
このラストシーンは不満だった。最後まで、人間とアンドロイドの境界が揺るがされた方が、人間性について考えさせられるのではないだろうか。

○この作品世界は、人間の感情を機械(薬物?電気?)で操作するなど、即物的な世界といえる。感情を外部から操作するという発想は、感情はしょせん脳の化学反応の結果に過ぎない、という考えから出てくるものだ。このような即物的で淡泊な世界設定の中で、「生命に対する同情」を人間性の根源に据えようとしているのには、違和感をもった。
しょせん「生命に対する同情」だって化学反応の結果に過ぎないし、アンドロイドがそういう《心理》をアウトプットするように開発していくのも、容易に思える。

○この作品に登場するアンドロイドは同じ型番だが、性格も、ものの考えも、それぞれ大きく違う。
人間らしい感情だってもっている。例えばヒロインのアンドロイドは、主人公が大切にしている生身の羊(この荒廃した世界では本物の「生命」が貴重で大変大切にされている)を最後に殺すのだ。これは嫉妬とでもいうべき感情ではないか。

攻殻機動隊』というマンガでは、ロボット兵器:タチコマに生じつつあったものを【 個性 】と呼び、兵器としては危険視した、というエピソードがあった。
しかし、その【 個性 】こそ、生命のゆらぎ、あるいは生命の萌芽とでもいうべきものではなかったか。
私はこのエピソードを思い出し、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に出てくるアンドロイドたちは《生きている》、と思ったのだ。