だまされない〈議論力〉

だまされない〈議論力〉
吉岡友治 2006 講談社

内容(「MARC」データベースより)

識者・新聞・数学-。もっともらしい議論の欠陥はこう見抜け! ややこしい話を丸裸にする方法からよくあるステレオタイプの吟味まで、ツボさえわかれば誰でもできる。知的武装の書。

感想

意見と根拠からなる「議論」。議論の構造の基本をおさえ、議論の妥当性を評価する能力を身につけるにはどうすればいいか、ということを問題設定にしている。もちろん、著者もいうように、議論の妥当性を評価する力を身につけることは、1人1人の問題だけではない。それはよりよい議論を社会に満たし、よりよい意見を集団全体で練り上げるという、社会全体の問題なのである。

全体としては、論理学やクリティカルシンキング、レトリックの本に書いてあるようなことが、ざっくばらんに書かれている。妥当性を評価する、という力をつけるには、いまいち系統立っていないし、取り上げているテーマが少なすぎる。

最後の方で、国語力とは、細かい用法にこだわることで日本人でないものを排除するフィルターではなく、異なった価値観の他者と議論する力であるべき、と主張している。なるほどなあ、と思った。
大賛成。

メモ

(社会的発言力をもたないもの(子供など)に、どんな意味づけをしても、彼らは言葉で自己主張できないため反論されない。このように反論できない者を利用する議論は妄説を生む。)p75

「相手が自分の根拠を認めれば、相手に自分の意見を押しつけることができる。逆に自分が相手の根拠を認めれば、自分の意見を捨てて相手に従わねばならなくなる。つまり議論とは、支配と服従という権力関係を暗黙のうちに含むシビアなゲームなのである。議論に負けると、なんだか悔しい感じになるのは、そういうことなのだ。
 しかし、これが「勝ち負け」に終わらないのは、双方が「真理の探究」という共通の目標を持っているからだ。議論としてどちらが正しいか決定するのは、勝ち負けを決めることが主なる目的ではない。よりよい解決を求めるためである。だから、議論に負けても、それは相手に負けたことにはならない。真理に負けた、いや従っているのである。悔しがるより、自分がより真理に近づいたと満足すべきなのだ。」p93

(《読解》→《解釈》→《批評・鑑賞》という順で語れば、美術に対してもかなり客観的に語れる。)p114

(書き手と読み手の情報格差を利用した議論は、その根拠がいい加減になることがあるので注意。)p121

「難解な用語法は、貧困な内容を隠すためのテクニックであることも多い。」p148

(歴史記述は物語にすぎない。史料をどのような観点からどう整理するかは、その歴史を語る現在の人の世界観の反映。
特に現在と、反対のものとして過去を語る言説は疑った方がよい。もっとも、我々はそのやり方でしか歴史を描けない。)p214

(日本語の美しさや正しさについて細かいことまでこだわる言説があるが、これは同じ日本人で仲間であるということを、書き手と読み手が確認しあっているに過ぎない。ここでの言語は、見知らぬもの同士がコミュニケーションするための道具ではなく、異質なものを排除するフィルターと化している。)p215

「国語教育は「文化的な正しさ」にばかりかまけた結果、グローバルな言語的リテラシーという本質を捕らえ損なっている」p226