ケガレ

ケガレ
波平恵美子 初版1985 講談社

内容、カヴァー裏より

民間信仰において、ケガレを祓う儀礼は頻繁に多様な形で行われていた。人間の不幸は、ケガレ=不浄に原因があると考えられ、生活の隅々にまでその指標が浸透していたのである。死=黒不浄、出産・月経=赤不浄、罪や病、境界・峠という空間等、様々な民俗事例にあらわれたケガレ観念の諸相を丹念に追い、信仰行為の背後にあるものを明らかにする。

感想

日本の民俗学における重要な概念である「ケガレ」に焦点をあて分析したもの。例も豊富でかつ先行研究も存分に引用批判しており、説得力がある。

ケガレについて考えることはなぜ重要なのか? 著者はまえがきでこう書く。

文化人類学では、人間の文化は自分たちを取り巻く世界を構造化するものであるとする。その構造は、その文化を担う人々によって明示されている。それとは気づかぬまま、人々はその構造に従って認識し行動する。優劣を付けたり、差異化さらには差別したり、グループ分けしたり、強い関係、弱い関係を結んだり、関係を結ぶことを拒否したりする。少くとも、1980年代までの日本文化では、世界を構造化する大黒柱にケガレという指標を用いていたといえる。ケガレは差異化のもっともわかりやすい、そして、時には感情に訴え、身体反応までも引き起す強い指標であった。」p4

古来より日本の多くの人々は、死や血をケガレとし、忌んできた。ケガレは「単なる汚れとかきたなさという意味をはるかに越えた意味内容を含み、儀礼的(宗教的)な価値を示すものでもある。」p17 その背景や感覚をつかむことは、私たちの先祖が見てきた・生きてきた世界を知る上で重要だろう。

本書には著者による1970年代の豊富なフィールドワークの成果が紹介されている。が、そのほとんどが山間の僻地か島嶼部で、ケガレの感覚を残していたのは、そういう僻地だけだったのだろう。また、つい40年ほどで、ケガレの感覚がほとんど一掃されていることにも驚きを覚える。
いや逆か。つい40年ほど前まで、ケガレの感覚をある程度残していた地域もあったのである。
西欧で発達した偉大なる近代科学に席巻されていないあらゆる地域と同じように。茫洋としているけれど、豊かでときに残酷な精神と、それによって形作られた世界が日本にもちょっと前まで残されていたのである。

ケガレは、死や出産、月経、病気、ケガレに接する職業、制御されない火、空間の境目、時間の境目などに生じるという。ケガレは儀式によって祓われる。厄災の原因と考えられることもある。ただ、ケガレに対する考えは地域間で差が大きいそうだ。死や出産をケガレとしているところは多いが、その他に何がケガレなのか? どのような儀式でどの程度生活を犠牲にしてケガレを祓う必要があるのか? ケガレが厄災を招くか否か? などといった点でである。
ケガレという概念がいかに土着的なものか、考えさせられる。これだけ多様なものを、全ておさえつつまとめるのは不可能だろう。しかしそうであっても、ケガレという死や出産を忌む感覚は、日本という土地に生きた先祖達がもっていた視座として重要であるのは変わりない。

メモ

(死者を弔う儀式では、ドアをひっくり返すなど、いつもの「さかさま」が強調される。)

「農民社会において、農業以外を生業とする人々、特に鍛冶屋などの特殊技術を持つ人々を畏怖しかつ差別し、偏見を持つ傾向があるのは通文化的に見いだすことができる。」p199