マンガはなぜ規制されるのか 「有害」をめぐる半世紀の攻防

マンガはなぜ規制されるのか 「有害」をめぐる半世紀の攻防
長岡義幸 2010 平凡社

内容、カヴァー折口より

東京都の青少年条例、児童ポルノ禁止法など、マンガについての規制が強化されつつある。日本独自の表現であり文化であるマンガは、なぜ国や自治体に縛られなければならないのか?規制の仕組み、バッシングの歴史などをわかりやすく記述し、「非実在青少年」問題の深層を解明する。

感想

 「非実在少年」というキャッチーな用語と、表現の自由を脅かすのではないかという問題から話題になった2010年版マンガ規制法、東京都青少年条例改正案。
 その議論に供する目的で、1950年代から続くマンガ規制の歴史・実態と、その問題点を書いている。東京都青少年条例改正案はいくらか修正した後、結局「改正」された。

 60年以上続くマンガバッシングと規制の在り様を読んでいて思うのは、やはりお年寄りになると、新しい文化が理解できず、糾弾してしまうということだ。若い頃お年寄りから表現規制を受け反発した者も、自分がお年寄りになるとやっぱり規制したくなる。あるがままとして人の性なのだ。
 また今もそうだが、「自由」に対する意識が低いんだなあ、とつくづく感心する。道徳は所詮、文化やコミュニティの価値観でしかない。ある程度それを押しつける必要もあるだろう。しかし、それはコミュニティをくるくると回す上での最低限度であるべきだし、〈自分はある価値観を押しつけているんだ〉という自覚は絶対必要だと思う。
 自分の道徳を押しつけるマンガ規制をみていると、法律・条例をもって自分の道徳で他人を安易に縛ろうとする無神経さに不愉快な気持ちになる。

 全く規制するなとは言わない。しかし、業界で自主的な規制(売り場の棲み分)ができてる現在、なぜ行政がお金をかけてわざわざ規制する必要があるのか? しかもなぜ、アニメやマンガだけ?

 また規制の中身も曖昧すぎる。どんな犯罪がダメなのか? どんな性癖描写がダメなのか? このいい加減さ、あいまいさ。無神経だ。

 本書でも紹介されている考えだが、青少年を無害な状況におくことは問題の解決にならない。有害なものもある中で、正しい判断ができるようにすること。それが問題であり、教育だ。人間はずっと有害なものもある状況下にあった。そうやって人は生きてきた。現代だってそう。大人の社会で「有害」と考えるものが存在するならなおさら、子供もそれにならす必要がある。

 なお本書は、規制反対の意見だけで、規制賛成派の言い分を整理していない。ゆえに、タイトルであるマンガはなぜ規制されるのか?、の解もはっきり提出されない。規制賛成派の論理にきちっとした反論もない。規制賛成の人の共感を得ることはできないだろう。致命的欠陥だと思う。
 さらに、マンガ規制に関してはもっと多様な意見があるはずだが、そこらへんをもっと整理分析してほしかった。

 なおこれは期待の持てる部分だが、日本は絶対によくなってる!
 過去60年の、行政や規制賛成派の議論が紹介されているが、その議論のレベルの低さには驚きあきれるばかり。根拠のない個人的妄想をもちよって、お互いを慰撫してるだけ。まあ、規制賛成派だけを集めているからというのが一番の理由だろうが。
 マスメディアの言説もレベルが低い点では同じ。国の発表を横流しするか、それに小学生でも書けるような幼稚な“感想”を付けるだけ。社説といっても、大衆にこびを売るような常識的な意見を連ねるだけ。この前も、根拠もなく「もっと議論すべきだ」で終わっていた社説があったが、本当に「すさまじきもの」だ。空虚感を覚える。
 これに比べれば、このマンガ規制法に対し、ネットで議論がわき上がったが、全体のレベルはずっと高かったし、多様であった。まあ、反対派が多かったけれど、規制賛成派、規制反対派それぞれが自分の意見を根拠に基づいて主張していた。自分の価値観を明らかにしていた。僕にとっては新規な考えもあった。

 僕はこんな社会が望ましいと思っている。
 人が自由にものを考え、意見をいい、自分の価値観を明らかにする。そして、より望ましい社会にするために、価値観と価値観をぶつけあう。練り合わせる。
 かつ、他人の価値観が自分と違っても過剰に支配しない。
 ネットの議論をみていると、ますます、自分が望ましいと思う社会になりつつある。わくわくだ〜!