ミミズクと夜の王

ミミズクと夜の王
紅玉いづき 2007 メディアワークス

内容(「BOOK」データベースより)

魔物のはびこる夜の森に、一人の少女が訪れる。額には「332」の焼き印、両手両足には外されることのない鎖、自らをミミズクと名乗る少女は、美しき魔物の王にその身を差し出す。願いはたった、一つだけ。「あたしのこと、食べてくれませんかぁ」死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。全ての始まりは、美しい月夜だった。―それは、絶望の果てからはじまる小さな少女の崩壊と再生の物語。第13回電撃小説大賞「大賞」受賞作、登場。

感想

 う〜ん。ぶっちゃけ、おもしろくない。登場人物の行動原理がよく分からないし、そもそも人物造型が単純すぎる。一生懸命生きてる感じがしないんだよなあ。絵本の中の動物さんたちみたい、っていえば分かりやすいかなあ。
 著者が、美しい世界をつくろうとしているのはよく読めるけれど、そこに清濁あわせのんだ人間が生きていなければ、偽りの世界だ。

なるほどと思った他者の文章

『『ミミズクと夜の王紅玉いづき――フェティシスム賛美と他者の不在。』(アブラブログ、2007/04/08)
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-79.html

この作品は、「フェティシスム賛美」であり、「他者」が存在していない。
(中略)
実は、最初の数十ページぐらいまで、私は好感を持って読み進めていた。暗い森というありきたりすぎる無意識の暗喩の中、その文脈ではシュルレアリスム的なデペイズマンを読み取れなくもない異形の魔物たち。そしてなんと言っても主人公少女の、そこはかとない狂気。この文章だけの紹介なら私は間違いなくその作品を読むだろう。
暗い森や魔物はどうでもいいとして、少女のそこはかとない狂気は、個人的には稚拙に思えるがライトノベルということで野暮なことは言いたくないしセリフの言い回しにあざとさを感じながらも悪くはない「戯画的な誇張を施した狂気」の表現として好意的に捉えていた。
しかし、だ。
話が進むにつれ少女は普通の少女になっていった。それも、現代の普通に教育を受けている「近代的」且つ「一般的」な少女に。
これを狂気からの脱出とは読めない。何故なら、狂気との境界の描写があまりにも稚拙だからだ。少女の生い立ちの設定だの、少女が人を殺傷したことだの、涙を流したことがないだの、食べられたいという欲望が変換されるくだりだの。リアリティという問題でもいい。ライトノベルだし私のような人間が突っ込むことでもないとも思う。しかし、その狂気との境界の描写が、あまりにも近代的自我への無自覚な信仰によることが問題なのだ。(中略)
この作品における狂気の扱い方は、まさにフーコーが批判した扱い方をしている。即ち、狂気を他者として捉えてないのだ。狂気的な人間も私たちと同じ自我を持っているという近代的自我的な思い上がりとも言える思い込みで少女の狂気を書いている。
さらに少女はいろいろな事件を経て成長していく。ラストで彼女はフェティシスムを選択するが、「思惟する我」が絶対的正だという視点で通して描かれている。