チベット旅行記

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チベット旅行記
河口慧海.著 長沢和俊.編 原著(1904) 白水社

内容(「BOOK」データベースより)

 ただひとり、ひたすら求道の情熱に身を任せ、明治33年、日本人として最初にチベットに入国した河口慧海。その旅行記は古典的名著であり、読み物としても抜群の面白さを備えている。上巻では、明治30年6月、日本を出発し、装備も不十分なまま寄せ来る困難をしのぎながらヒマラヤ越えに挑んださまを描く。
 チベットに入った慧海は、念願の仏教大学入学を許可された。法王ダライ・ラマにも会い、医者としての名声も高まり平穏で順調な毎日を過ごしていたが、次第に外国人ではないか、という噂がたちはじめ、ラサを離れる決心をする。だが、行く手には乗り越えなければならない関所がいくつも待ちかまえていた…。

雑感

○1897年に日本を出発し、日本人で初めてチベットに入った僧侶の旅行記
書き手でもある河口慧海氏は、日本に伝わる経典が正確に訳されていないのではないかという疑問を抱く。そこで、原点に近いものが残されていると考えられる、チベットの経典を収集しようと考えたのだ。
 書き手は、インドでチベット語を習得した後、チベットへ向かう。当時のチベットは、西洋列強を恐れ、鎖国中である。日本人であることがばれれば、極刑もあるだろうと筆者は記す。検問に引っかからないよう、インド・ネパールの間道を抜けてチベットに侵入するのだが、その道程は壮絶の一言である。
 7000メートル級の高山。氷の流れる冷水の河を徒歩で渡る。未熟な装備。はっきりとはわからない道を、行先の曖昧な道を、ただチベットをめざして歩く。しかもそんなすさまじい環境でも、戒律である午後からの食事と肉食をかたく固辞している。すさまじい。いやすさまじい。安全が最優先の登山からみると、ほとんど狂気である。
 最終的に書き手は首都ラサに到達する。そこで大学に所属し、また名医として、ダライ・ラマに謁見するまでになる。すさまじい情熱と行動力である。
 本書には、当時のチベットやラサの風習や人々の生活がつづれらており、文化人類学的にも価値があるそうだ。当時のチベット人は風呂に入らず、垢で黒かったという記述が目を引いた。
 最終的に、日本人であることがばれそうになってラサを脱出する。冒険小説のような逃避行で、インドへ駆け抜け終わる。


河口慧海チベットの人々から何度も何度も、イギリスのスパイではないか? と疑われる。それを読んでいると、当時の世界情勢を感じさせられた。当時のインドはイギリスの植民地。アジア諸国にどんどん手を伸ばす西洋の列強国と、それに怯えつつもなんとか回避しようというアジアの人々がみえる。


○最初に、河口慧海の装備は貧弱だと書いた。しかしその一方、彼には普通の冒険家にはない力を持っていた。魔法のような力である。それは彼が、僧侶だ、ということだ。
 いにしえの経典を読める。つまり、人々の幸不幸を左右する呪文を唱えられる。
 仏教の力。宗教の力。ある地域の人々が、ある教義を強く信仰するという意味。それが少し見えてくる。
 河口氏が文典の講義を約すると、みんなより優しくなり、食料をくれたり、テントに泊めてくれたり、馬に乗せてくれたりする。魔法みたいだw。


○河口氏は非常なほどのポジティブシンカー。殴られたり、バッグを落とすなど、ネガティブなことが起こっても、仏教の力で、ポジティブに考える。つまり振りかかる困難も、仏の与えたもうた、乗り越えるべき試練になるのである。


○河口氏は、おかしいと思ったら容赦なく疑問に思う。
 現地人の地理の説明や、チベット仏僧の主張する宗教上の教義も、(おかしい)、(間違っている)、と思ったらしっかり相手に反論している。ある意味すごいと思った。いい意味で。
この好奇心と、何でも自分で考えてみようとする態度と、自我の強さが、河口氏の魅力であり、凄まじい行動力の原点に思える。

メモ

「(多夫一妻について、外国に行ったことのある商人などには批判的に言う人もいるが、)それは昔からルクソー・ミンヅ(古くからそういう習慣がない)という一言でかたづけられてしまう。この言葉はことに強大な力を持っていて、この一言のもとに尊い真理も踏みにじられてしまうのである。」p265