日本語が亡びるとき

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日本語が亡びるとき
水村 美苗 2008 筑摩書房

内容(「BOOK」データベースより)

「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか?日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した。

雑感

一年ほど前に、ネットを中心に、大変話題になった本。今頃だが、やっと読む。非常に面白い。誰かが、今後言語を考える上で土台となる本だと言ったけれど、確かにその通りだと思う。
ネットサーフィンしていると、本書の影響を強く受けて言説をよく見かける。上記の証左だろう。

主な主張、メモ

○世界中の言語を二つにわけられる。一つは「現地語」、もう一つは「普遍語」。
 「現地語」とは、一つの文化圏でだけ使われている言語のこと。ほとんどの言語がそうで。日本語もそう。
 一方、「普遍語」というのは広い地域にわたり書き言葉として使用され、最新の知識や技術が集積された言語のこと。ラテン語アラビア語ギリシャ語、中国語など。これらの言語は、「叡知を求める人」が進んで学んだ。なぜなら、この普遍語を使わなければ、知識を得ることも、また発表することもできなかったからである。例えば、イギリスの物理学者ニュートン。引力の法則を解明したことで有名。彼は、日常では英語を使っていた。しかし、引力を発見したことはラテン語で発表した。そうでないと、ヨーロッパ中にいる「叡知を求める人」に、自分の業績を知ってもらえなかったのである。


○そもそも古来より、〈叡知を求める人〉(自分が今知っている以上のことを知りたいと思う人)は、自国語と、その時その地域の普遍語(ラテン語アラビア語ギリシャ語、中国語など)を話すバイリンガルであった。その人たちは普遍語の「図書館」(比喩)に出入りすることで知識を得ていた。


○「学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いたことが〈真理〉であるかどうか、〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問うことによって、人類の叡知を蓄積するもの」であり、「学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において、〈普遍語〉でなされてあたりまえ」


○「翻訳の本質は、まさに、上位レベルにある言葉から下位レベルにある言葉への叡知や思考のしかたを移すことにあった。」


○出版技術の向上により、17世紀以降、強力な自国語が普及。フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語など。単なる現地語にとどまらず、叡智を結集しえたいくつかの現地語が「国語」として発展する。
「〈国語〉とは、〈現地語〉でしかなかった言葉が、〈普遍語〉からの翻訳を通じて、〈普遍語〉と同じレベルで、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す荷を負うようになった言葉」


○近代、本質においてマザーランゲージでしか表現できない文学の地位が高く、豊かな国民文学が華ひらく。しかし、学問が自国語でできたのは、ほんの限られた地域での、ほんの限られた間でのまれな出来事。


○各種、交通の発達、経済の一体化やインターネットの登場によって、英語が、地球上を統一する普遍語として急速に広まっている。


○しかし英語の急速な普及もあり、ほっとくと国語としての日本語は亡び、現地語の一つになるだろう。
「亡びる」↓
「ひとつの〈書き言葉〉が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうこと」p52
だから、日本語教育を強化しなければならない。
具体的には、国語教育は「日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」
理由1、「規範性をもって市場に流通するように至った〈書き言葉〉」だから。
理由2、「「西洋の衝撃」を受けた日本の〈現実〉について語るため、日本語の古層を掘り返し、日本語がもつあらゆる可能性をさぐりながら花ひらいてきた」から
理由3、「もっとも気概もあれば才能もある人たちが文学を書いていたときだから」


 日本語の深みを高めないと、〈叡知を求める人〉が見向きもしなくなる。


○少数の優秀な日本人に、日本語と英語が話せるよう、強力なバイリンガル教育をほどこすべきだ。