日本人のしつけは衰退したか 教育する「家族」のゆくえ

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日本人のしつけは衰退したか 教育する「家族」のゆくえ
広田照幸 1999 講談社

表紙より

礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き。パーフェクト・チャイルド願望は何をもたらしたか。しつけの変遷から子育てを問い直す。


「パーフェクト・チャイルド」──しかしながら、大正・昭和の新中間層の教育関心を、単に童心主義・厳格主義・学歴主義の三者の相互の対立・矛盾という相でのみとらえるのは、まだ不十分である。第一に、多くの場合、彼らはそれら三者をすべて達成しようとしていた。子供たちを礼儀正しく道徳的にふるまう子供にしようとしながら、同時に、読書や遊びの領域で子供独自の世界を満喫させる。さらに、予習・復習にも注意を払って望ましい進学先に子供たちを送り込もうと努力する──。すなわち、童心主義・厳格主義・学歴主義の3つの目標をすべてわが子に実現しようとして、努力と注意を惜しまず払っていた。それは、「望ましい子供」像をあれもこれもとりこんだ、いわば「完璧な子供=パーフェクト・チャイルド」(perfect child)を作ろうとするものであった。

メモ

「本書では、単にしつけの変化のみを論じるのではなく、しつけの変容という主題を幹の部分に据えつつ、枝葉の展開として、さまざまな教育問題や現代的な家族問題が登場してきた経緯とその性格を描いてみたいと思っている。」p10


(明治から戦後初期の村のしつけは、近代で失われたユートピアのように描かれる。しかし、以下のような重要な点が見落とされている。
①差別や抑圧が組み込まれていた
②生活の中で自然に学んでいくというやりかたは、意識的な配慮を伴わないがゆえに、望ましくない結果をうむことがあった
③共同体からはみ出したものは、適切は配慮をなされなかった
④村のしつけは、ローカルルールにすぎなかった)p33


(家庭の教育力が低下しているというよりも、共同体が子供の社会化を行う機能を失うことにより、子供の社会化に関する最終責任を家庭という単位が一身に引き受けざるを得なくなっている)p127 (またそれゆえに、1970年代から、親の、学校に対するまなざしが厳しくなった。)p118


今も昔も「農村部や低学歴・低階層は、しつけに無関心で、そのぶん学校への依存度が高く、それに対し、都市部、特に高学歴・高階層は、学校よりも家族こそがしつけの主体であると考え、学校への期待や依存度が低いという傾向」がある。p162


貧富の差が激しかった昔(明治から戦後初期)ほど、地域や階級によって、しつけの差が激しかった。
ごくごく一部の都市部の高所得者(高所得サラリーマン・豪農・豪商)が、家庭で礼儀作法のしつけを行っていた。
一方、伝統的な庶民の家ではほとんどしつけがなされていなかった。厳しいしつけがなされていたのは労働に関する部分だけ。(第一章)

雑感

 封建制度や家父長制度が根強く残った江戸時代や明治に比べ、「今の家庭のしつけはなってない」、というのは極めてよく聞く言説だろう。
 この、いわゆる「常識」を数々のデータを分析することによってあっさりと覆している。社会学の本領発揮といったところだろう。このように、「常識」を反転させられるのはなかなかキモチイイ。カギとなるのは、社会における階層(例えば都市住民か農村住民か)と、しつけの中身のカテゴライズかな。
 常識を反転させるだけでなく、純粋に内容も濃い良い本、充実した研究。詳細はメモにて。