「鎖国」という外交

鎖国」という外交
ロナルド・トビ 2008 小学館

内容、出版社ウェブサイトより

鎖国とは、「国を鎖(とざ)す」という消極的な政策ではなかった。 気鋭の米国人学者が、新たな視点から従来の鎖国観の転換を迫る意欲作。

雑感

テーマはとても面白い。題名をみただけで常識を反転させられそうだと分かり、ワクワクする。
ただ、筆者が朝鮮通信使の研究者だけあって、朝鮮通信使に関する話題が多く、本の内容が目標に向けて絞られていない。そこが不満だった。
また、朝鮮通信使の専門家のわりに、朝鮮からみた記述が少ない。またあっても、きちんと根拠を示していない例が多い。

メモ

「近世の日本は「鎖国」という言葉が呼び起こすような閉鎖状態ではなく、近世を通じて、日本の外交や政治経済は、東アジア諸国と密接につながり、日本の外交政策は東アジアの城内経済や、日本の国内政治経済にとって、きわめて重要な役割を果たしつづけた」p78


「いわゆる「鎖国」が完成したといわれる寛永年間において、江戸幕府みずからの政策を「鎖国」と見なす認識もなく、また「鎖国」という言葉もなかった」p78


「近世日本の対外政策(中略→)物質の輸出入や人々の出入国を「海禁」によって統制していた、日本型対外システム」p103


(江戸時代、日本と中国との間には正式な外交関係はなかったが、日中貿易は繁栄)p130


江戸幕府は、自らの力を見せつけ、また威信を高めるために、朝鮮通信使を利用)第一章


江戸幕府朝鮮通信使や中国人商人、オランダ人商人、琉球の使者から海外の情報を収集し、利用していた)第三章


(生糸、砂糖、朝鮮人参の輸入により、金銀銅が大領に流出。これを阻止するため、江戸幕府は貿易額を制限するもそれほどうまくいかず。吉宗の代以降、徐々に国産化が進み、流出を抑えることに成功する。)第三章


ポルトガル人がやってくるまで、日本人の外国意識は、日本と中国(朝鮮も含む)と天竺(インドのことだが、中国の先というニュアンス)の三国しかなかった。しかし、ポルトガル人の来航以降、スペイン人やアフリカ人、インド人、東南アジア人など、新参の異国人が多数やってきて、世界には多数の国々があり、多数の人種がいるという世界観に変化する。)第四章

《なるほど》と思った他人の書評の引用

『見もの・読みもの日記』より
http://blog.goo.ne.jp/jchz/e/7faf0815620c23a9c5a9231bb61edf7b
「吉宗は、長崎を訪れる中国商人から薬種やサトウキビに関する情報を収集し、輸入品の国産化を推し進めた。吉宗の功績は大きいが、「鎖国」日本の現実が、脆弱きわまる「輸入依存」国家であったこと(この自己矛盾!)や、それを抜け出すにあたって、中国商人の国際ネットワークが活用されたことは、もっと知られていいと思う。」