反貧困(「すべり台社会」からの脱出)

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反貧困(「すべり台社会」からの脱出)
湯浅誠 2008 岩波


【内容、カヴァー折口より】
うっかり足をすべらせたら、すぐさまどん底の生活にまで転げ落ちてしまう。今の日本は、「すべり台社会」になっているのではないか。そんな社会にはノーを言おう。合言葉は「反貧困」だ。貧困問題の現場で活動する著者が、貧困を自己責任とする風潮を批判し、誰もが人間らしく生きることのできる「強い社会」へ向けて、課題と希望を語る。


【メモ及び筆者の主張】
「私自身は、ホームレス状態にある人たちや生活困窮状態にある人たちの相談を受け、一緒に活動する経験の中で、センの「潜在能力」に相当する概念を"溜”めという言葉で語ってきた。
 "溜め”とは、溜池「溜め」である。大きな溜池を持っている地域は、多少雨が少なくても慌てることない。その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。このように"溜め”は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッションの役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。
 "溜め”の機能は、さまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。(ry)頼れる家族・親類・友人がいるというのは、人間関係の"溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な”溜め”である。」p78


「貧困とは、このようなもろもろの"溜め”が総合的に失われ、奪われている状態である」p80


筆者は現在の日本社会のことを「すべり台社会」と表現している。「少年期・青年期の不幸・不運がその後の人生で修正されず、這い上がろうにもそれを支える社会の仕組みがない」という点から。「うっかり足を滑らせたら、どこにも引っかかることなく、最後まで滑り落ちてしまう。」


「現代の日本社会に人々が貧困化する構造的な要因がある」と指摘している。


 貧困状態にある人を自己責任論で片付けてしまうことに対する批判。自己責任論を声高に叫ぶ人が、自分が高い教育を受けたり、きちんとサポートしてくれる親類や友人がいた(つまり溜め)ので、普通に生活できているという事実に気づいていない。


 日本社会はセーフティネットが機能していない、と指摘。


 財源の問題ではなく何を優先するかという問題だ、と指摘。


 NPOなどに相談せず、自分一人で頑張りすぎて、もうひっちゃかめっちゃかになってから、相談に来る人が多い。そういう人を減らすためにも、安易に自己責任論を振りかざすべきではない。と指摘。


他の先進諸国は自国の貧困問題を認めている。しかしその中で、日本は貧困を認めていないし、もちろん対処もしていない。p104


【雑感】
 具体的な事例をもとに、日本の貧困問題にきりこんでいる。
 著者の展開する「溜め」の概念には恐れいった。【メモ及び主張】の項目の一番先頭にメモしたので、是非再度熟読してほしい。お金だけでなく、私たちは、家族や友人、学歴など、多くの「溜め」に囲まれている。このアイデアは、それらを大事にする契機にもなるだろう。
 多くの人が、いわゆる「貧困状態」にあるということは、どうしてもきちんと受け止めるべきだ。ワーキングプアという問題があるが、長時間働いているのに、まともに金が貯まっていかないというのは、これはもう、構造的な問題というほかない。私たちはそれを直視して改善をめざすべきだ。
 貧困に苦しむ人たちに対し、努力や知恵の足りない自己責任と考えるのか、それとも社会的システムの問題だと考えるのか。
 筆者は、社会的な問題だと言う。
 だけど僕はバランスの問題だと思う。自己責任でもあるし、社会的システムの問題でもあると思うのだ。また、人によってもその度合いは違うだろう。
 もっとも、今の日本社会の認識は、自己責任に傾きすぎていると思う。あるいは、社会システムに改善すべきところが多すぎるというべきか。
 とかく、私たち一人一人が、貧困にまともに対応していない社会システムの問題にきちんと向き合い、改善を思考していくべきだ。
 それから後だ。自己責任論を金科玉条のように振りかざすのは。


 後、苦言を呈するなら、本書は少し言葉の使い方が甘い。
 細々とした疑問が残る。論証が雑。
 例えばAということを主張するために、BやCやDが必要になるとしよう。そうした時、CやDがぬけている例がいくつかあるからだ。
 しかし一方、学者でなく貧困問題を解消しようと実際に行動している人なので、貧困問題に対する著者の情熱はよく伝わってきてよかった。