近代の労働観

近代の労働観
今村仁司 岩波 1998


【内容、カヴァー折口より】
一日のかなりの時間をわれわれは労働に費やす。近代以降、労働には喜びが内在し、働くことが人間の本質であると考えられてきた。しかし、労働の喜びとは他者から承認されたいという欲望が充足されるときである。承認を求める欲望は人間を熾烈な競争へと駆り立てる。労働中心主義文明からの転換を、近代の労働観の検討から提起する。


【雑感】
 人間は労働するものであるし、また労働しなければならないという概念が国家やブルジョアジーによって規定されていく過程が説明される。商品経済の発展や、貧民対策の収容所での過酷な労働が、労働人間をつくりだしたという。


 その一方、前近代では、「厳密な意味では『労働』は存在しない。『労働』は、あるところでは宗教的な祈りとひとつであり、他のところでは倫理や道徳とひとつであり、また芸術作品をつくる美的活動ですらある。しかも生業にさかれる時間は少なく、余暇が圧倒的である。(ry)太古的な労働経験とは、少ない生業の時間と余暇を享受する経験であった。近代以前の生活の社会的評価軸は、余暇である。」p25 例、古代ギリシャなど


 また、労働にともなう喜びは、たいてい、他者からの評価(認められること)による喜びであると断じる。職人的価値は社会的な評価なしにはありえない。労働の喜びとは、労働それ自体に内在しているものではなく、外発的なものである、と指摘している。確かにそうだなと、強く納得した。


 なお、「労働の現場において原料の知識に精通しているとか、生産手段の科学的技術的性質の知識とかを職人的労働者はかつては重視していたが、いまではそうしたことは消滅した」p154
といっているけれど、承認欲求で動いているのは今も昔も同じでは?
 確かに、筆者の主張するように、分業制になり、完成形の部分部分にしか関われなくなり、仕事の実在性は薄まったと思う。しかしそれは、仕事の喜びは承認欲求によるという主張の、その程度を動かすものではないだろう。


 筆者はまた、現代のように忙しくて虚栄心に駆り立てられていると、共同の事物を共同して思考することができない、天下国家を論じることができないp188と主張している。
 しかし、だからといって、暇を与えれば、「自由な人格として共同の事物を思考し、ひいては人間存在の意味を考えながら生きる」p191となるだろうか?


 僕も労働は人の本質だとは思わない。しかし、承認欲求は人の本質だろう。承認欲求が近代の労働と密接に結びつけられた以上、労働は人の本質に限りなく近づいてしまったといえるのではないか。


 前近代の「労働」についても、もう少し、具体例に基づいた考察がほしいし、「共同の事物」について考える価値についても論じてほしい。そして、暇を与えたら「共同の事物」について考えるようになるという根拠も、もっと説得力をもったものを準備すべきだ。


【メモ】
「現実の労働はそのつどつねに承認欲望に包まれている。労働の喜びは、承認欲望の充足である。この承認欲望を情熱的に求めるがゆえに、労働者や職人は、過酷な労働にも『耐える』ことができる。」p132


「 パスカルは虚栄心について鋭い指摘をしている。
『 われわれは、自分のなか、自分自身の存在のうちでわれわれが持っている生活では満足しない。われわれは、他人の観念のなかで仮想の生活をしようとし、そのために外見を整えることに努力する。われわれは絶えず、われわれの仮想の存在を美化し、保存することのために働き、ほんとうの存在のほうをおろそかにする。』」p134


→だがしかし、「ほんとうの存在」というものは、そもそも存在するのだろうか?


近代は労働の格上げと余暇の格下げがおきた。p162