意見をもつということ

意見をもつことは恐ろしい。


たいていのものごとにはメリットとデメリットがある。その清と濁を併せ呑み込んで、何らかの判断をくだし、意見をもつことは難しい。


個人は情報を収集する認識主体だが、人の認知能力には極めて明快な限界がある。例えば、人は紫外線を見ることはできない。また、進化の末に獲得した認識の方向からそうそう自由になることはできない。例えば、同族の死体を見ると目をそむけてしまう。これら、認知と認識の限界の中、なんらかの判断をくだし、意見をもつことは不安だ。


いや、それ以上。意見をもつことは恐ろしい。


もちろん、ある判断をくだし、そう意見をもった、結果責任を負わねばならないからということもある。しかし、それだけではない。私は、ヒトという限界の中、清濁を併せ呑み込んで意見をもつことが恐ろしいのだ。たまらなく恐ろしいのだ。


私の頭の中では、「限界」に対する焦燥を中心にしつつ、「意見」という名の回転翼がぐるぐると回っている。
私にはそれがたまらなく恐ろしいのだ。