寝ながら学べる構造主義

寝ながら学べる構造主義
内田樹 平成14 文藝春秋


【カヴァー折口より】
構造主義という思想がどれほど難解とはいえ、それを構築した思想家たちだって「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」という問いに答えようとしていることに変わりはありません。ただ、その問いへの踏み込み方が、常人より強く、深い、というだけのことです。ですから、じっくり耳を傾ければ、「ああ、なるほどなるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心がゆくはずなのです。(「まえがき」より)


【なるほどと思ったところをメモ】
 「A国人とB国人は同じ一つの政治的事件について違う評価をするということは「事実」としてはもちろん誰にだって理解できます。しかし、ABそれぞれの国民のものの見方はとりあえず「等権利的」であり、いずれかが正しいということはにわかには判定しがたいという意見を公言した人は、世界中どこでも、近年まで、本当に少数だったのです。」p23


「世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、一九六〇年代のことです。」p25



【感想】
著者である内田がそうなのか分からないが、本書はものごとを簡単に捉えすぎている点があるなと思った。主軸となる指摘はおもしろいし、なるほどと思ったんだけど、ある問題や現象を、自分の主張したい主軸に合うよう、強引に解釈しているところが散見されるのである。あらい。というか、表現が適当。


その例↓
「 生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの座り方(体育座りのこと:skycommu注)にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。
 竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術の行使の実例だと思います。」」p105


なんだこの大胆な主語のすり替え。理由の推測。説明のない非論理的な論述。


その他、p81、p95、p105、p113、p165、p170、p190、p193、など。


あさい。あさいなあ。メモしててそんな感想がこぼれてくる。


いちいち指摘するのがめんどくさくなってきたので、ここで終わり、ハート。