身分差別社会の真実

身分差別社会の真実 (身分とは何か? 誰が差別されたのか? 被差別民の起源は? 身分制社会の矛盾を追究し、江戸の社会構造を捉え直す)
斎藤洋一+大石慎三郎 1995 講談社


【重要な点あるいはskycommuの琴線に触れた点】
「「江戸図屏風」をよく見てみると、武士とそれ以外の町人や農民が、町の中で身分の差を意識した行動をとっているわけではないことがわかる。」p4
「江戸時代の「身分制」の特徴とは、違う身分間のことというより、むしろ同一身分の内側にこそ、より厳しい階級差があったことなのである。武士という身分の内部には厳然たる階級差が存在し、農民の内部にも、町人の内部にもそれぞれ階級差が見られた。そういう意味で、江戸時代は「総差別」の社会だといえるのである」p5


→同一身分内にこそ細かな階級が存在し身分差別があった、というのはおもしろい指摘。一つの身分を一つの組織として捉えればそれはよく理解できる。私たちも自分たちの会社でははっきりとした上司部下関係を築くが、他の会社とはそうではない。


「武士の世界が、家禄によって厳然たる身分制のもとに置かれ、その仕事・役職までもが階級によって決まっていたと説明したが、それが始めから終わりまで百パーセント守られていたとしたら幕府行政は機能せず、徳川体制はもたなかったはずである。実際、五代将軍綱吉のもとで、身分にかかわらず才能のあるものは登用するというシステムが導入されている。」


「徳川将軍は十五人いるが、このうち正室から生まれた者は初代家康、三代家光、十五代慶喜の三人しかいない。」


「江戸時代社会は、それぞれの身分の人々が、それぞれの身分にしたがって生きることで成り立っている社会だった。いいかえれば、人々が「(身)分相応」に生きていれば社会は安定する。しかし、人々が「身分不相応」なことをすれば、身分秩序は壊れ、社会は不安定になる。」


→差別が当然であったというのが民衆の自然な認識であったということに加え、身分制社会を考える上で極めて重要で常識的なポイント


「すでに10世紀初頭には京都に、「濫僧・屠者」などと呼ばれ「賤視」されていた人々が存在していたこと、それらの人々が「ケガレ」観念とかかわって「排除」されはじめていたこと、そしてその後に成立した中世の被差別民が、近世の被差別民が携わったのとほぼ同じ職能に従事していたことなどを知ることができる。こうしたことからいえば、近世の被差別民の原型は、すでに中世にできていたといえよう。」
「近世の「えた」身分の人々の主要な役割とされた「斃牛馬の処理」が、すでに11世紀には確実におこなわれていたこと、また、「えた」身分などの人々を「人外」視する見方も、すでに13世紀には成立していたことがわかる。」
「近世の「えた」身分の人々は、「旦那場」といって斃牛馬を処理して、その皮や爪・骨などを取得する権利を認められた数ヵ村から数十ヵ村、時には数百ヵ村に及ぶ地域をもっていたが、その旦那場が中世後期には成立していたことも明らかにされている。」


→つまり現在に続く被差別部落は、よく学校教育で言われるように、「江戸時代に権力者が農民の不満を防ぐために一方的につくった」とはいえないと筆者は主張している。


「(江戸時代の)「えた」「ひにん」身分などの人々は、平人との交際からきびしく「排除」されていたのである。
「江戸時代中期の享保期ごろから、権力によって差別が強化されたようにみられる。その背景には、被差別民と平人とのいわば身分的境界が、このころに弛んだという事情があったのではないかと思われる。いいかえれば、これ以前は幕府や藩が規制しなくても、被差別民と平人との身分的境界ははっきりしていた。ところが、それが弛んできたために、幕府や藩がいっせいに「えた」「ひにん」などの統制令を出したのではないだろうか。」
(ex一目で被差別民とわかるような服装、髪型などの統制)


被差別民の役割と生業
皮革加工。履き物の生産と販売。灯心の生産と販売。下級警察的役務。牢番役。処刑に関わる仕事。医師。製薬。城の掃除。芸能。


「被差別民のなかには、いわば専業によって、財をなした人々もいたし、大地主に成長した人々もいた」


「近世後期には、被差別民も同じ人間だという主張がみられるようになってくる」


「近世後期には、このような差別との戦いが全国各地でみられた。
「えた」身分などの人々が、近世後期には、次第に経済力をつけてきたこと、被差別民以外の人々との交流を深めたこと、そして、被差別民も同じ人間だという認識が、被差別民にも、被差別民以外の人々にも、ようやく広まりつつあったことが関係していると考えられる。
たとえば、小諸藩安政六年(1859)10月に、「えた」「ひにん」へも「種痘」をほどこすとしている。その理由を、「えた・ひにんどもの儀は、流行痘にて難渋いたし候者これある趣、親子の愛情においては別儀これなく、嘆かわしく存ずべく」と述べている。
「親子の情愛」においては、「えた」「ひにん」もかわりはないという理由から、小諸藩が「えた」「ひにん」へも種痘をほどこすことにしたのである。これによって小諸藩から差別がなくなったりしたわけではないが、幕末には、こうした考え方もみられたのである。」


→人間には差別する心性も対等だと思う心性もあるということが分かる。人間ってだからおもしろいなあ。


「明治政府は「一片の布告」を出しただけでそれを実現する努力をおこたったのだ、と考えるだけではおそらく不十分だと私には思われる。そのことは、この「廃止令」に反対して、「民衆」が大挙して被差別部落の人々を襲った事件が、西日本各地で多発したことからもうかがわれよう。
ここでは、権力が「廃止」するといっているのに、民衆がそれに反対し、あまつさえ被差別部落を襲撃しているのある。この事実は、権力が差別をし、民衆はそれにのせられたと考えるのでは不十分だということを示していよう。」


【感想】
私も以前から、部落差別は主として江戸時代に完成していたという主張には疑問を感じていた。権力者がいきなり差別しろなどと言い出したところでスムーズに差別が広がるわけではあるまい。やはりそれ以前にそれを支えるだけの民衆感情が醸成されていたと考えるのが自然だろう。それにしても、江戸時代の権力者の、差別するようにとかいうお触れなどが見つかっていないという指摘には驚きを覚えた。


最近、部落問題に興味がある。その理由は、最近革の質感が好きになったこと、地域に根ざした歴史に興味があること、などによる。


近畿地方に特に被差別部落が多いという。被差別民が権力によって急につくられたものというより、地域社会に根ざしたものである一つの理由になりそうだ。


本書の欠点は、中世、あるいはそれ以前から江戸期と同じような被差別民が存在したという主張の根拠がいかんせん少ないことだろう。被差別民の実態を知るうえでどうしても江戸時代の文献が多くなっている。


中世以前の被差別民の記録は少ない。文献に載ることと歴史的事実はもちろん違う。あまり文献にないということはいったいどういうことなのだろうか? そこにも中世、あるいはそれ以前の被差別民の様子を知る手がかりになるまいか。ただ、可能性が多すぎて私にはいまいちはっきりと指摘できない。


また、(中世および近世の部落差別)=(悪)という見方にとらわれすぎていて気になった。私も、中世および近世の部落差別を少しも批判をするなとは言わない。しかし、あくまでそれは人が平等になった近代的な見方であって、学問的に調査するならもっと冷静でなければならないということにもっと自覚的になった方が良い。今の価値観で昔のことをピーピー言っても、昔のことを知るうえではあまり役に立つまい。むしろ、弊害の方があろう。


斎藤氏は「被差別民・「えた」に、そうしたは「ケガレ」を「キヨメ」る能力があるとみられていた」などといたるところで主張しいているが、これも極めて近代的な都合の良い解釈のように思えてならない。確かに、そういう解釈は、牛馬の死体を処理するということを理由に現代の私たちからは可能だし、被差別民らしき者のでてくる初期の文献ではそういう見方もしている。しかし、中世および近世において被差別民が斎藤氏のいうように神聖な存在だったと思われていたのならば差別・排除など起こるはずがないだろう。やはり、被差別民は「ケガレ」た存在だったと考えられていたとする方が自然だ。これに無理矢理、それを「キヨメ」る役割がどうとかこうとか言い出されると、斎藤氏も何らかのイデオロギーにとらわれているように思ってしまう。


学問的な本にあっては、そういうのはふさわしくない。


《20080209の記事》