脳のなかの幽霊

超おすすめ!
脳のなかの幽霊
V・S・ラマチャンドラン著 山下篤子訳 1999 角川書店


【カヴァー口の内容紹介より】
切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を人のものだと主張する患者、両親を本人と認めず偽者だと主張する青年―著者が出会った様々な患者の奇妙な症状を手がかりに、脳の仕組みや働きについて考える。さらにいろいろな仮説をたて、それを立証するための誰でもできる実験を提示していく。高度な内容ながら、一般の人にも分かりやすい語り口で、人類最大の問題「意識」に迫り、現代科学の最先端を切り開く!


【雑感】
 続編として『脳のなかの幽霊、ふたたび』もある。一般人向けの講演集で、内容はほとんど本作の劣化簡易版と言っていい。


 本書で著者は、脳の特定の部位に損傷のある人を調べることによってその脳の特定の部位の働きを調べる。例えばAという部分が損傷を受けた人が、他はまったく異常が見られないにもかかわらず、足し算引き算ができなくなったとしよう。するとAは数字計算の作業に何らかのかたちで必要で、かつ短期記憶や言語やユーモアなどの他の能力には必要でないことが分かる。


 直感的推測から、それを実証するために考えた各種実験とその結果まできちんと記述されていて筆者の検討を追尾することが可能。


 この本から導き出される命題は「認識は脳による解釈・仮説にすぎない」といったところか。この手の本に共通する命題である。意識が脳の機能であるということも当然といえば当然であるが本書を読んでいて強く思った。


【各種実験から分かったおもしろき考察】
○私がという自己が固定されている身体イメージというものは不変でも何でもなく、脳がまったくの便宜上、生存のために一時的に構築したものにすぎない。身体イメージは外部の状況に応じて柔軟に変化する。意識ではおかしいと分かっているイメージでも無意識がそうであると判断しそれに抗えないときもある。
(ex同調させられた道具に痛みを感じる)


○視覚情報の受容では「いかに経路」と「何経路」とでも呼ぶべき二つの受容経路がある。「いかに経路」は把握、方位、その他の空間的機能に関与し、「何経路」は対象の認知に関与する。「いかに経路」が古い機構であるのに対し、「何経路」は新しい機構である。このうち、認識になるのは「何経路」のみである。つまり私たちは「いかに経路」で成される脳の活動を認識することなく、生きている。「いかに経路」で、私たちの無意識のうちに処理され行使される機構に対し、ラマチャンドランは脳のなかのゾンビみたいなものであると表現している。人間の視覚処理に非意識的である程度独立した機構があるということは「あなたのなかにももう一つ別の存在がいて、あなたの知らないあるいは気づいていないところで、自分のすべきことをしているということを示している」。そのように無意識に情報を処理するゾンビとでも呼べるものが人間には多数存在しているのだ。
(exボールをキャッチする動作などは、このいかに経路の産物で私たちは通常それを無意識に行っている)


○「患者から得られた事実は、知覚と呼ばれるものが、実際は感覚信号と過去に貯蔵された視覚イメージに関する高次記憶との動的な相互作用の最終結果であることを示している」。
その根拠→知覚において無意識に行われる、経験に基づく情報の補正・補い
(ex盲点に対する補正) 
シャルル・ボネ・シンドローム患者の認識する現実の一部に生じる非常に極めて鮮明な、だけど非整合的すぎて現実でないと分かる幻覚。脳は非常に鮮明と感じる情報をストックしていて、このシンドロームの患者はそれがつねづね見える状態にあるといえる。逆に言うと一般人は状況にぴったり合う情報を過去の経験から引きづり出して利用しているのだ。その過去の経験による情報が無制御に垂れ流されるのがこのシンドロームであるといえる。私たちが見ているこの現実は、ひょっとすると思ったよりも幻覚に近いのだ。


《20070912の記事》