ゼウスガーデン衰亡史

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ゼウスガーデン衰亡史
小林恭二 1987 6 15 福武書店


〔あらすじ〕
 天才的夢想家でありかつ異常な放浪癖のある藤島宙一と天才的株トレーダーでありかつ高い経営管理能力を持つ宙二。この二人の兄弟は、奇妙な遊技場「下高井戸オリンピック遊技場」を造る。


 後にそれは「ゼウスガーデン」と名を変え、信じられないような急成長を遂げる。快楽至上主義を掲げ、最盛期にはなんと旧下高井戸オリンピック遊技場と鮫入りプールをあわせたものの一千倍近い占有面積を有し(多分にそれは優に県単位の面積を超える)、従業員は三百万人を突破、年間総売上は国家予算の三倍にまで達した。


 様々な快楽を徹底的に追求し、激しい権力争いの中、繁栄を続ける超巨大テーマパーク「ゼウスガーデン」。しかし、ありとあらゆる快楽に浸った人々はついに「異常性の快楽」に目覚める。そして、最期には「破壊の快楽」へ。かくして、欲望の狂騒ともいうべきゼウスガーデンは滅亡の時を迎える。およそ百年にも及ぶ快楽追求の歴史は幕を閉じたのだ。


 ゼウスガーデン繁栄の中、すべての人間的営為を悪と認め、木や石や空のような意思をもたぬ存在に近づくことを至上の命題とする宗教が誕生する。この宗教は、ゼウスガーデンの亡き後、あっという間に広まり、世界にまたがる大宗教帝国を作りあげる。そして世界は、長い無我の時代(time of no idntity)を迎えることとなったのである。


(所感)
 抱腹絶頂。快楽追求王国、「ゼウスガーデン」の発展と顛末を描く必笑の歴史書


 超巨大遊戯場「ゼウスガーデン」で、熾烈で飽くなき権力抗争が繰り広げられる。何よりおもしろいのが、それが歴史書の記述を模していること。冷静かつ俯瞰的な視点の中で、ゼウスガーデンに謀略の嵐が吹き荒れる。


 その俯瞰的な文体はゼウスガーデン時代の再考を求めてもいるよう。


 そしてもう一つ特記すべきは、圧倒的な列挙の数。たとえば、「鮫入りプール(ゼウスガーデンの有力アトラクション)」の高官たちの腐敗ぶりを引いてみると、、、


【巨額の年棒をせしめ、
公邸、私邸、セカンドハウスと支給され、
その公邸、私邸では、
 メイドから、コックから、ベビーシッターから、家庭教師から、執事から、家令から、運転手から、不足番から、お化粧係から、マニキュア係から、ヘアメイク係から、スタイリストから、照明係から、カメラマンから、アシスタントから、給仕から、お伽衆から、道化から、口上衆から、門番から、送り迎えの自動車から、送り迎えの飛行機から、送り迎えのグライダーから、それらの維持費から、光熱費から、交際費から、交通費から、交遊費から、交合費から、
 とにかく何から何までぜーんぶ鮫入りプールのツケとした上、
 豪華なパーティーを開くわ、豪勢な宴会を開くわ、豪儀な散敗をするわ、豪遊するわ、豪飲するわ、豪食するわ、豪語するわ、芸者をあげるわ、二号を作るわ、三号を作るわ、四号を作るわ、五号を作るわ、六号を作るわ、七号を作るわ、八号を作るわ、九号を作るわ、それでもって妾だけで野球チームを作るわ、野球拳をするわ、猫じゃ猫じゃを踊るわ、逆立ちするわ、立ち小便するわ、あかんべするわ、
 それはもう腐敗の限りをつくしていた。】


 これほどじゃないけど、こんなのがたくさん。よく思いつくなとつくづく感心する。


 さらに本書の中で繰り広げられる愉快な快楽論。



 以下は快楽学会の主流を占めていた快楽独立論。


【 この雑誌(オリンポス通信)は、人間の快楽の在り方及びその可能性をあらゆる見地から検証すると銘打った思想誌で、後のゼウスガーデンの進むべき方向性を決定したのみならず、当時の芸術界、思想界に巨大な影響をおよぼした。
 創刊号の巻頭を飾った論文は李紅夫博士の『快楽独立論』である。
 論の冒頭部分を引用する。
 有史以来、人類が快楽を相対的なものと考えてきたのは、紛れもない事実であーる。
 それは次のように実に教訓的に言いならわされてきた。
 すなわーち、
 快楽と苦しみは隣り合わせのものであーり、快楽に到達するまでの苦しみが大きければ得られる快楽は大きーく、到達するまでの苦しみが小さければ得られる快楽もまた小さーい。また、苦しむことなく獲得された快楽は往々にして不吉であーり、後に代価として過大な苦しみを支払うことになーる。更ーに、快楽のみ獲得してそれに付随する苦しみから逃れようとする者は、必ずや滅亡の憂きめを見ることになーる。これこそ因果必定・衰亡迅速の法則であーる......と。
 しかーし、
 これは基本的には人類が未だ貧しく、労働を是とし快楽を禁忌とせねばならなかった時代の悪しき遺産であーる。そもそーも歴史的に見れーば......。
(ここからながながと李博士の珍妙な歴史観が開陳されるのであるが本筋に関係ないので省略する。)
 しかーし、今や社会の基本的な富も充分に蓄積され、快楽をタブー視する必要性はどこにもなーくなった。
 今こそ快楽の真の姿を見据える時なのーだ。そうした時、快楽の苦しみからの独立性はおーのずと浮かびあがってくーる。】
 この、李博士の唱える快楽独立論はどんどん過激になっていき、【快楽こそが人生において常に最優先されるべきものであーり】【今や我々は断固たる決意をもって直接的に快楽につーながらないすべてのものを社会から追放してゆくべきであーり】【その課程にあっては論理も社会秩序も顧られるべきではないのであーるるる!】という風に進んでいく。



 以下はゼウスガーデン以外の遊技場の失敗を分析した記述。


 【彼らは(ゼウスガーデン以外の遊技場)「子供のための娯楽こそ本当の意味で大人を楽しませる娯楽である。大人といえど楽しむ時は子供と同じ」という『快楽における年少者優位論』に染まりきっていた。
 この年少者優位論は二十世紀をリードした快楽論である。その裏には十九世紀以来社会正義として尊重されてきた『理性』のアンチテーゼとしての『子供』の姿があるとされる。
 つまり『理性』という正義に面とむかって抗しえたのは当時『子供』だけであり、『子供』は『理性』に対して神聖不可侵な領域を形成していた。この傾向は二十世紀末には更に強まり、現実の子供の行動まで理性の対象外であるとみなされるにいたった。この危険な認識は二十世紀後半から二十一世紀にかけて多くの悪質な少年犯罪を頻発させることとなり、二十一世紀後半には社会から完全に払拭されるにいたるが、この当時には未だ社会の通念を支配していた。
 そんなわけであるから、大人の側から快楽を追求する下高井戸オリンピック遊技場を、彼らはいかがわしく見ていた。】
 


 以下はゼウスガーデンを滅亡へと導く『異常性の快楽』の誕生のあらまし。


 【この事件(ゼウスガーデンの権力者が食肉として振る舞われたという何とも奇怪なクーデター)以降、ゼウスガーデンは『異常性の快楽』に目覚めたとされる。
 これは別名『自己嫌悪の美学』と呼ばれる精神分裂的な快楽思想で、2021年、ハンガリーの心理学者スピチチ・ゼラウキーによって提唱された。
 ゼラウキーは自我を、自己保存欲求の命じるまま自分をより長く生存させようとする「生存我」と、自分をより高いレヴェルの生の形態である快楽に委ねようとする「快楽我」に分けた。
 その上でゼラウキーは、生存我+快楽我=K(Kは定数)というゼラウキー等式を作り、快楽我を増大させるには生存我を必要最小限まで減少させなければならないと主張した。
 そこでクローズアップされたのが『異常性の快楽』である。
 ゼラウキーによると、一般的な快楽体験を積むことは、必ずしも快楽我を強めることにはならない。何故なら快楽の中には快楽我よりむしろ生存我に近いものが数多く存在するからで、それらは生存我を強めこそすれ決して弱めることはない。いわゆる『健全な娯楽』というやつである。快楽我を強めるには、こうした『健全な娯楽』を退け、快楽我の顕現である『異常性の快楽』に身を委ねなければならない。そうすることで人は快楽我を増大させ、真の快楽を味わうことができる。
 ゼラウキーの『異常性の快楽』の勧めは、ありきたりの娯楽からは何の快楽も得られなくなっていたゼウスガーデンの人士に熱狂的に迎え入れられた。
 2030年代に入ると、ゼラウキー理論は李博士の快楽独立論にかわって、快楽学会において主導的な立場を占めるようになり、数多くのスキャンダラスな事件を巻き起こしつつゼウスガーデンに定着した。そして、ついにはゼウスガーデンを滅亡へと導くのであるが、それはまた後の話である。】




 なにより本書の一番の魅力がゼウスガーデンの成長と衰亡を単なる笑い話ですませられないことだ。


 私たちの周りにはありとあらゆる快楽・欲望がある。人、というより人類がそれを追求するとどうなるのか?きっとそれは異常性の快楽や破壊の快楽へいきつくに違いない。世界の慣習がめちゃくちゃにされた後、「無我の時代」というのも到来するだろう。


 ゼウスガーデンは単なる空想ではない。人類の一面に脈々と成立する「実在」の遊技場である。


《20060411の記事》