ボランティア(自発的奉仕活動)の動機、それを磨いてきたか?

 大学の先生が語ってくれた言葉。


 おおっぴらに標榜する価値のあるとてもよい言葉だと思った。


 だからアップしたいと思う。




「君たちは今、外国人留学生と地域住民と日本人学生の交流を目指すイベントを企画立案している。」


「それは感心なことだと思う。」


「けれども最近の君たちを見ていると、イベントを実行するための作業に追われているようにしか見えない。」


「イベントの意義とかではなく、イベントをいかに問題なく実行するかということしか考えていないんじゃないか?」


「君たちは、ボランティア(自発的奉仕活動)の動機、それを磨いてきたのか?」




 ボランティア(自発的奉仕活動)は大なり小なり誰でも行っていることだ。


 たとえば、家庭自体がそれの固まりだし、私財をなげうってそれをする人もいる。命をなげうってそれをする人もいる。おおいなる理想を持ってそれをする人もいる。それを生き甲斐にしている人もいる。


 何となくそれをする人もする。社会的慣習からそれをする人もいる。惰性でそれをする人もいる。暇だからそれをする人もいる。女目当てでそれをする人もいる。


 私は後者の消極的理由からボランティア(自発的奉仕活動)を行ってもかまわないと思う。ただその自覚はしてほしいと思うが、個人主義が基礎となってるこの時代、相手に迷惑をかけない行為を批判することは難しい。


 けれども。そうではあるけれども。


 あの大学の先生が語ってくれた言葉は重い。この時代に、世界に対して、私がこのボランティアをするということはどういうことなのか?


 僕はそれをつきつけられたと思う。
 そして、心にグサッときたのだ。


《20060414の記事》