ガニメデの優しい巨人

ガニメデの優しい巨人
ジェイムズ・P・ホーガン 池央耿訳 東京創元社 1981 7 31


【本に付されている宣伝より】

 木星最大の衛星ガニメデで発見された二千五百万年前の宇宙船。その正体をつきとめるべく総力をあげて調査中の木星探査隊に向かって、宇宙の一角から未確認物体が急速に接近してきた。隊員たちが緊張して見守るうち、ほんの五マイル先まで近づいたそれは、小型の飛行体をくり出して探査隊の宇宙船とドッキング。やがて中から姿を現したのは、二千五百万年前に出発し、相対論的時差のため現代のガニメデに戻ってきたガニメアンたちだった。前作「星を継ぐもの」の続編として数々の謎が明快に解明される!


【あらすじ】
 前作、「星を継ぐもの」の続編。


 SFミステリーもの。


 木星の衛星ガニメデで発見された二千五百万年目の宇宙船。そこには、当時の地球生物や今はなき衛星ミネルヴァで発達した知性体、ガニメアンの死骸をはじめ、人知を超えた装置などが残されていた。国連は総力をあげて、この不可解な宇宙船の謎を解こうとする。


 と、そこへ未確認の宇宙船が突如としてやって来る。それは二千五百万年前のとある事故で、それからずっと宇宙を旅せざるをえなかったガニメアンの宇宙船、シャピアロン号だったのだ。相対論的時差により、ほとんど光速近くで移動していたとはいえシャピアロン号内部ではすでに二十数年にも及ぶ時が流れていた。その操縦者たちガニメアンもすっかり疲弊しきっていた。そんなガニメアンたちを地球人は温かく迎える。


 かくして地球人とガニメアンの心温まる交流がはじまったのだ。


 ガニメアンは肉食動物のいない特殊な環境、惑星ミネルヴァで進化した暴力性の全くない、地球人から見ると全く不思議な巨人だった。科学は圧倒的に進み、技術力も特出していた。


 ガニメアンは地球人たちから故郷ミネルヴァの末路を聞き悲嘆にくれる。かれらは故郷ミネルヴァが木っ端微塵になる前事故にあった為、ミネルヴァのその後のことは少しも知らなかったのだ。かくして、両人種の知恵を結集してその後のミネルヴァやミネルヴァに運ばれた地球生物、いなくなったガニメアンの謎に迫ることになる。


 次第に浮かび上がる驚異の真実。それは自らの遺伝子操作によって二酸化炭素への耐性をなくした後、環境の変化に耐えられず、いずこかへ去るガニメアンの末路と、ガニメアンによって遺伝子分離実験を受けるためミネルヴァに連れてこられ、その後ミネルヴァで独自の進化を遂げることになった地球生命体たちの歴史だった。そして地球を謳歌することになる人類こそ、その遺伝子分離実験の結果、二酸化炭素に対する耐性を上げ、免疫力が低下し、かつ脳に発展の余地が生まれた地球生物の進化の成れの果てなのである。人類の登場はガニメアンによる遺伝子分離実験があったからこそなのだ。その後人類は大戦争でミネルヴァを破壊
し、月を介して地球に舞い戻り、地球の覇者となり今に至る。


 結局、ガニメアンたちは五万年前ルナリアンが残した地図を目当てに「ジャイアンツスター」へと旅立っていく。そこに自分たちの子孫が必ずいるとは限らない。けれども、地球にいればいつか地球人に迷惑をかけることになる。彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。ガニメアンはもう十分に彼らに干渉したのだ。そんな複雑な思いから彼らは無窮の宇宙へと旅立って行ったのだった。
 

【雑感1】
 設定上“優しい”ガニメアンたち。しかも、強引ながら肉食動物がいなかったからという進化論的説明も付け加えている。もちろん、肉食動物がいなかったからといってそのような性格が生存に有利になるかといえばそうはあるまい。


 利他的であり、利己的であるという微妙な人間の心理は肉食動物が周りにいたからというよりも、むしろ高度な集団生活を営んでいるということに起因する。DNAが遺伝の単位となっている以上、あくまで利己的な気質を発現するDNAが後世に残らざるをえない。だが、人のように高度な集団生活を営んでいる場合、他人と協力し自分をそこそこ犠牲にし集団のために多少つくすような気質を発現するようなDNAが残るだろう。そうでないDNAは、いずれ淘汰されてしまうと考えられる。完全に、利己的な気質を発現するDNAを持つ人間が、集団生活の中でうまくやっていけるはずがない。やがて彼らは集団の役に立たない、むしろ害悪と判断され、集団を追い出され、のたれ死ぬのがおちだろう。


 かといって完全に利他的だったらいうは及ばず、ちょっぴり利己的な人間に巧みに出し抜かれ、その生存率は低下するに違いない。たがために人間は一見すると利他的でもあり利己的でもある気質を持つものが超支配的数となっているのだ。高度な集団生活をする以上、このような気質になることはやむを得ない


 もちろん、本書はお話だから、もうガニメアンの気質についてとやかくいうまい。


 なお、本質的に「“優しい”人類」という思考実験は非常におもしろいと思う。そのような人種を定義することによって、我らが地球人の有り様が見えてくるからだ。


 人間がちょっぴり利他的で、周りの人もなかなか優しい人たちばかりだからといって、やっぱり人類全体の行いは過去も現在も、多分に未来も、愚かで血塗られている。人類の歴史はそのまま戦争の歴史だ。私たちは互いに殺し合うことで時代時代をくぐり抜けてきた。地球上どんな時代をみてもそこには必ずどこかで凄惨な集団的殺し合いが行われてきたし、地球上どんな土地をみても集団的殺し合いが行われてこなかった時代をもたない土地はない。


 人類の歴史は本当に愚かで血塗られている。もしその様を「“優しい”人類」がみたらどう思うだろうか(ここでいう優しいとは非暴力的性質であるということ)。集団的殺し合いを行う人間の気質がいかに進化心理学的に裏打ちされたものだったとしても、それが通用しないものたちがみればどう感じるだろうか。なんて非生産的で非論理的なんだ!って驚愕するに違いない。なにしろ、その集団的殺し合いに費やし、それによって奪われる物的人的時間的エネルギーによっていろんなことができるのだから。


 本書ではその思考実験的会話を地球人科学者、ハントとガニメアンの高性能コンピューター、ゾラックがしている。ちょっと引用してみよう。

ハント:「人間が大勢集まって戦う。これが戦争」

ゾラック:「戦う?」

ハント:「これもわからないか……一つの集団が別の集団と乱暴し合うのだよ。組織を作って殺すんだ」

ゾラック:「何を殺すのですか?」

ハント:「相手の集団だよ」

ゾラック:「ルナリアン(地球人の祖)は自分たちを組織して、他のルナリアンを殺したのですか?」「故意にそんなことをしたのですか?」

ハント:「ああ、そうだよ」

ゾラック:「どうしてそんなことをする気になったのですか?」

ハント:「つまり、その……何故戦争をしたかと言うと……」「身を守るためなんだ……自分たちの集団を他の集団の脅威から守るという……」

ゾラック:「他の集団というのも、やはり相手を殺すために組織されているのですか?」

ハント:「いや、なかなかそう単純にはいかないんだけれども……まあ、そう言ってもいいだろうね」

ゾラック:「だとしても、論理的に考えれば同じ疑問に行き当たります。他の集団は何故殺そうとするのですか?」

ハント:「ある集団が、別の集団の感情を害したり、あるいは、二つの集団が同じものをほしがるとか、一方が相手の領土を奪おうとするとか……そんな場合に戦いが解決の手段になることがよくあるのだよ」

ゾラック:「ルナリアンは皆、脳障害を持っていたのですか?」

ハント:「生来、非常に性質の激しい種族であったろうというのはわたしたちも考えていることだがね」「しかし、何しろ彼らは滅亡の危機にさらされていたし……つまり、そのままでは死に絶えてしまうおそれがあったのだよ。五万年前、ミネルヴァは惑星全体が凍るような寒さだった。それで、ルナリアンはどこか暖かい惑星に移住することを考えたんだ。考えられるのは地球だね。ところが、当時ルナリアン世界は人口過密と資源の枯渇に悩んでいた。そうした状況が背景となって、ルナリアンたちは心が荒んでいったのだろうね。死の危険は刻々と迫っている。恐怖に駆られて彼らは気持ちを抑えきれなくなった。そうして、とうとう戦争をはじめたんだ」

ゾラック:「死を逃れようとして、殺し合ったのですか?凍らせまいとして、ミネルヴァを破壊したのですか?」

ハント:「そんなつもりではなかったのだよ」

ゾラック:「どんなつもりだったのですか?」

ハント:「おそらく、戦争で生き残った者たちが地球へ行く気だったのだろうね」

ゾラック:「どうして、皆一緒に行こうとしなかったのですか?戦争というのは、非常な物量を消費するものでしょう。それを、もっとよいことに使ったらよかったのではありませんか?ルナリアンはありたけの知恵を働かせるべきでした。生きることを望みながら、ことごとく死ぬ方向を目指したのです。やっぱり、ルナリアンは狂っていたのです」


 視点を変えればこのような見方も確かにできる。けれども、このような見方は可笑しいだろうか?幼稚だろうか?いろいろな要因を無視したオメデタイものだろうか?何とも楽観的で荒唐無稽なものだろうか?オトナの事情を考えていない実に短絡的でコドモっぽいものだろうか?


 そうだ。一部そうだ。このような見方は一部、オトナの事情を無視した実に短絡的でコドモっぽいものだ。


 でもね、こんな見方ができなくなったらね、もっと幼稚だよね。短絡的だよね。頭悪いよね。


 このような視点を持つことはきわめて大事だと思う。人類が戦争に疑問を持たなくなったらそれでもうおしまいだ。それは種全体の生存としてもおしまいであるし、そんなありそうにもないことを引っ張らずとも、個人的におしまいだ。自分の生きてる世界に疑問を持たない個人は悲しかるべきほどに愚かしい。戦争であれ、何であれ、身の回りにあることに疑問を抱くことは限りなく大事である。


 その戦争に、真面目に疑問を呈するきっかけ・手段として「“優しい”人類」を設定することは実に有効だ。引用した会話はその例となろう。それぞれもそれぞれに、このような思考実験をしてみればいい。


 今の時代、殺し合うことにいかほどの価値があるのか?


 でも現に、親、兄弟、子ども、愛する人、友人を殺されて絶対に許せない人たちが大勢いる。この現実をどう考えたらよいのだろう。どんな言葉も、どんな行動も、どんな思考実験も時に無力だ。


 それでも人間は考え続け、言葉をかけ続け、行動を起こし続けねば。


【雑感2】
 宇宙人との遭遇ものは星の数ほどもあるだろうが、これほどあっさりと平和的に交流が進むのも珍しいのでは。僕なんか、宇宙人との遭遇と聞かされるとすぐドンパチやっちゃう方向にもっていってしまう。それにしても、なんと楽天的。言葉は高性能コンピューター通して通じる、意思疎通も普通にできちゃうし、しかも相手方は“優しい”ときた。


 「おいおい、こんな簡単に上手くいくものかよ」とこの小説において言うのはヤヴォなもんである。そんなものだ、とひとまず理解すれば楽しい。あまりに都合が良すぎてそう思えてくる。


 実際、「宇宙人」に人類が将来遭遇するとして、彼らはどんな姿をし、どんな風に人類と出会うことになるのだろう。そして私たちはそこそこ友好的にやるのだろうか。それともドンパチするのだろうか。


 やっぱり、いつの時代になってもドンパチやりそう。もしかしたらその時が世界で初めて、地球人が団結するときなのかもしれない(笑)。


《20060706の記事》