教室の悪魔(見えない「いじめ」を解決するために)

教室の悪魔(見えない「いじめ」を解決するために)
山脇由貴子 2006 ポプラ


【表紙の折口より】
「Iの母親は主婦売春をしています」と画像つきでばらまかれる嘘メール
「汚い」と言われ続けて毎日必死に身体を洗う子どもの自己臭恐怖
「退屈だから」といじめをエスカレートさせていく集団ヒステリー


・・・・・・子どもの世界で、いったい何が起こっているのか?
地獄の心理ゲームと化した「いじめ」の正体を示し
いま、大人がなすべきことを具体的に、ズバリ提示する。


【感想とかメモとか】
いじめの事例やその解決法、いじめに気づくチェックリストなどで構成されている。本書は、いじめの社会学的構造分析等は、特になされていないのだが、現在のいじめの様相を知るする上で非常にコンパクトにまとめられているといえるだろう。著者は、現在のいじめには、傍観者などいなく、被害者か、そのほか全員である加害者しかいないと指摘している。少しいいすぎであると思うが、自分の経験上、このぐらいつっこんでいっても、間違いであるとまではいえないと考える。傍観者というのは、いじめに関与しない人物のことをいうのであるのだが、クラスという社会集団の中で、いじめに全く関与しないということが可能なのか? という点で、私も傍観者という表現には違和感を感じる。もし、その表現を使うのならば、傍観者の定義をもっと詰める必要があるだろう。
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「 多くのいじめのパタンで、加害者達は被害者が「いじめられるに値する人間なのだ」という理由を作ろうとする。「こんな家族を持っているのだから、私達と対等ではない、汚らわしい、だからつき合いたくない」。多くのいじめに共通しているのは、いじめが進行してゆく中で、被害者がいじめられる理由が作り上げられてゆくということだ。因果関係は完全に逆転している。」p60
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「 いじめといういのは、特定の個人に起こる問題ではない。いじめられる側に原因があるからいじめられるのでもない。誰でも被害者になり得るし、誰でも加害者になり得る。いじめは循環する。些細なきっかけでそのターゲットは替わり、次々と移行してゆくのだ。だから、いじめ被害の体験があると同時に、加害者になった体験もあるという子は非常に多い。」p93
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「いじめられる側に原因など、ない。現代のいじめは、誰でもが加害者になり、被害者になり得る。いじめられる理由など、ないのである。事例の中でも書いたように、いじめられる理由というのは、いじめる側によって、次々と作られてゆくものなのである。」p109
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よくできた短編小説のような(大変失礼!)いじめの事例があったので引用したい。


「 Yちゃんのクラスでは、いま、H君がいじめられている。なぜH君がいじめられるようになったのかはYちゃんにはわからない。気がついたら、いじめが始まっていた。
 朝からクラス全員でH君を無視する。教科書を真っ黒に塗りつぶし、ノートを破く。体操着や上履きをトイレの便器に入れる。H君にぶつかったりした子は「うわ、汚ねえ」と大げさに騒ぐ。ぶつかったふりをして階段から落とそうとする。ありとあらゆることをH君はされている。
 YちゃんはH君と仲がよかった訳ではないけれど、時々話したりした。H君もYちゃんも本が好きで、最近読んだ本の中でおもしろかった本の話などをしていた。そんなに、悪い子じゃない。Yちゃんはそう思う。
 でもみんなが「あいつキモイよね」「見ていると吐きそう」「こないで欲しいんだけど」「てゆーか、死んで欲しい?」などと言っている時は、「うん、そうだね」と言うしかない。「そんなことないんじゃない?」なんて、絶対に言えない。H君をいじめなければいけない雰囲気ができ上がっている。一緒にいじめないのは、裏切り者になる。もしいじめに参加しなければ、今度はYちゃんがいじめられてしまうに違いない。
 今日は、誰が言い出したのか、クラス全員がひとりずつ順番にH君に「死ね」と言おうという話になっていた。こういうことは時々ある。順番に全員軽く頭や顔を叩くとか。シャーペンで刺すとか。H君の教科書も、全員で順番に塗りつぶした。Yちゃんもいままではやってきた。やらない訳にはいかなかった。抜け出せるときはトイレに行くふりをしたりしたけど、結局はもどってからやらされるので、できるだけみんなにはわからないように加減してやってきた。
 今日のはイヤだな、とYちゃんは思った。いくらなんでもやり過ぎ。そう思った。「私、ちょっとトイレ」と隣にいた友達に言ったら、「そんなの、後で一緒に行こうよ」と言われて腕をつかまれた。みんなが次々にH君に「死ね」と言い、とうとう、Yちゃんの順番が回ってきた。友達に押されて、H君の机の近くに行く。H君は机に顔をうずめるように、うつむいていた。「早くしろよ」と言われ、声を出そうとした。けれど、Yちゃんにはどうしても言えなかった。「どうしいたんだよ」「早くー」と言うみんなの声の後、「あれ、お前言えないの?」という声がした。思わず振り向くと、みんなの冷ややかな視線があった。「へえ、言えないんだ」。いじめの中心、K君が言う。H君の方を向き、言おうとしたが、Yちゃんはやっぱり言えなかった。背中越しに、みんながバラバラと散っていくのがわかった。
 翌日教室にはいると、みんなの視線が集中した。そして途端に教室が静まり返った。「おはよう」と近くにいた子に声をかけたが、顔をそむけられた。全員が同じだった。
 ふとH君の方を見ると、横にはK君がいた。H君は笑っていた。そしてH君は、K君に何か言われ、Yちゃんに近づいてきた。そして、Yちゃんに向かって言った。
「お前、キモイんだよ。死ねよ」」p93


これは、いじめの被害者以外が加害者にならざるを得ない悲惨ないじめの実態を印象づけるいじめの事例である。


しかし、それはおいといて、なんとまあ、よくできた短編小説のよう!
Yちゃんが、H君に「死ね」と言えず、いじめに参加しなかったことから、Yちゃんの世界は急速に反転する。これまでYちゃんは、しかたがなかったとはいえ、いじめの加害者であった。しかし、心が優しく、慈悲を示したがため、いじめの被害者へと急転落するのである。それを最大限に象徴するのがラストに放たれるH君の言葉だ。これまでいじめの被害者であったH君は、自分に慈悲を示してくれたはずのYちゃんを生け贄に捧げることによって、加害者という名の強者になり、あのような残酷な言葉を放つことができたのである。Yちゃんの優しい心がみごとに踏みにじられてたという点でも世界の反転をずばっと示すクライマックスである。


また、三段目の最後には、K君について、「そんなに、悪い子じゃない。Yちゃんはそう思う。」とある。現在形なのである。この文章の内容は、現在の時点からある過去を語っている。もっとも、この文章全体についていえば、過去形を使うことにこだわらずときおり現在形が使われている。上で引用した三段目の最後の文に現在形が使われていることは、作者の技巧ではないかもしれない。しかし、三段目は「時々話したりした。」、「おもしろかった本の話などをしていた。」と、文末が過去形で続くのだが、その最後の文では、K君は「そんなに、悪い子じゃない。Yちゃんはそう思う。」と現在形の文末で終わるのである。過去形が続いてきた中、現在形がくると、その現在形で終わっている文章は、現在までYちゃんがもっている印象を示しているような感じがする。つまり、語り手が語る現在でも、K君に裏切られた後でも、K君について、「そんなに、悪い子じゃない。Yちゃんはそう思う。」とYちゃんは考えているような印象を受けるのだ。文脈から考えると、これは過去の時点のことを示しているように読める。しかし、文末を過去形で続けた後、この問題となっている文を現在形で終わらせることによって、この文が現在も有効な文のように見えるのである。YちゃんはH君に裏切られたけれども、それでもH君をゆるしているようにみえるのだ。
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本書には、家族や教師にばれないよう必死にいじめを隠す被害者の例がたくさんあった。
本書はその理由について、いじめが家族や教師にバレると、いじめがもっとひどくなるといじめの被害者が怯えているからだと説明がなされていた。僕もそう思う。
しかしそれだけでなく、いじめられているという惨めな存在であり、社会的弱者であると、親や教師に思われたくないという被害者の心理が働いているのではないかと考えた。自分に期待してくれている人にそう思われることは、とてつもない恥であり、また、屈辱なのだと思うのである。