幼年期の終わり

幼年期の終わり
アーサー・C・クラーク 福島正美訳 s54 早川書房


【背表紙の宣伝より】
人類が宇宙への第一歩を踏み出した日、巨大な宇宙船群が静かに地球の空を覆った。やがて人びとの頭の中には一つの言葉がこだまするーー人類はもはや孤独ではない。そして、50年の歳月が流れた。その間、人類よりはるかに高度の知能とテクノロジーを有する宇宙人たちは、人類にその姿を現わすことなく、地球管理を行なった。神のごとき宇宙人に見守られる平和な世界。だが、それは一種の飼育場を思わせた。宇宙人の真の目的は?そして人類の未来は?ーー巨匠が異星人とのファースト・コンタクトによって新たな道を歩みはじめる人類の姿を、詩情ゆたかに謳いあげた傑作!


【雑感】
 超有名なSF。クラークの本を読むのは初めてだけど、すっきりしつつ豊かな文章がとてもよかった。訳が良いからか? 小説を読んでも普段、そんな感情はあまりわかないから、確かに何か光るものがあるんだと思う。


 結局、オーバーロード(驚異的な科学力を持つ宇宙人)が地球人類を管理した目的は、地球人類のオーバーマインド(よく分からん知的生命体)への昇華と融合だった。よく分からんが、オーバーマインドはオーバーロードたちをつかい、いろいろな生物を宇宙と親和性のある精神にまで進化させ、それを吸収してきたのだ。


 ここでいう、「宇宙と親和性のある精神」という表現は本書を読んだ僕の感覚的表現だ。小説の中で詳しく書かれることはないが、昇華目前の人間たちは認識能力が爆発的に増大し、物質的肉体を跳躍していた。


 これは人類の終末を描いているとともに、オーバーロードたちの物語なのだろう。人類はオーバーマインドの意志により、オーバーロードたちのもと超能力っぽいものを開花させられ、オーバーマインドに取り込まれた。


 ところで、彼らオーバーロードたちは?


 彼らは人類に比して圧倒的な知力、科学技術力を持っているにもかかわらず、オーバーマインドとの間にある壁を越えられずにいるのだ。彼らは人類のように、より上の階梯に進めず、オーバーマインドの手先に甘んじている。オーバーロードたちはオーバーマインドを探ろうとしているのだが、どうしても彼のことが分からないのだ。


 彼らオーバーロードたちは物質的肉体や科学技術力の限界の象徴である。


 時間的にも、空間的にも、その他何にでも、まさに圧倒的なスケールを持つ宇宙。それに比べ人間の小さな小さな小さな科学技術。それを目にしたとき、すがるべく残ってるのは精神だ。本書はこのように、科学技術の、そして物質的肉体の限界に直面した著者が、その代わりとして、精神の可能性を宇宙との親和性として夢想し、著されたと感じた。


 その妥当性はまた別だが、素直な感覚の発露として、極めてこの小説は上手にまとまっているといえる。


 なお、訳者は解説にて、バジル・ダヴェンポートの言葉を引用しているが、その中に「彼はSFを、哲学的思索のメディアとした、少数の作家たちの一人である」とあった。


 私は今、SFに強い関心がある。なぜなら、私は人間の認識の限界に思い至り、その限界へ挑戦するものとしてSFをみたからだ。上にあげたダヴェンポートの「SFを、哲学的思索のメディアとした」という言葉は、僕のSFへの関心を別な形で表現したものだ。アンテナに引っかかったのでメモっておく。


《2007/05/20の記事を転載》