ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由

ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由
ジョシュア・フォア著 梶浦真美 訳 2011 エクスナレッジ

内容、出版社ウェブサイトより

古代ギリシャで知識人の必須のツールであった「記憶術」と、最先端の脳科学や一流のプロたちの技術習得の秘訣を学び、全米記憶力選手権で優勝するまでの1年を描いた全米ベストセラーの話題作。

われわれ一般人でも、訓練すれば記憶の達人になれるのか?
記憶力はせいぜいで人並みであると自称する新進気鋭の科学ジャーナリストが、古代ギリシャの時代から知識人の間で綿々と受け継がれてきた由緒正しい記憶術を武器に、1年で記憶力の全米チャンピオンに輝くまでを描いた実験ドキュメンタリー。
著者が体験した記憶力訓練の記録であり、また記憶力の競技会という奇妙な世界に生息する、愛すべき変わり者たちの物語でもある。
古代から中世にかけて、知識人の必須の教養であった「記憶術」の歴史も語られる。
脳と記憶についての科学的な考察もある。
記憶の魅力に取り憑かれた著者が、好奇心の赴くままに記憶の世界を縦横無尽に駆けめぐる。
読み物としても面白さと、知的興奮を与えてくれる1冊。

メモ

・(強いチェス棋士は盤面を見たときに前頭頭頂皮質が活発化している。つまり長期記憶にアクセスし、過去の記憶を呼び出している。)p85

・(人類の脳の進化は更新世ーー180年前〜1万年前ーーに起こったものが大半。この時期に行っていた狩りでの生活に適応するように私たちの脳は進化している。人間が視覚情報や地理情報を覚えやすいのはこのため。たいていの記憶のテクニックは覚えにくい情報を覚えやすい情報(視覚情報や地理情報)に変換して覚える。)p115

・(古代ローマでは、文法、論理学、修辞学と同様に、記憶力を向上させるテクニックは古典教育の中心とみなされていた。)p121

・(イリアスやオデュセイアーは同じプロットがくり返され、また「心の賢しいオデュッセウス」といった型どおりの表現がくり返される。これは暗記に必要な手がかりで、両文学が口承文学だったことの証。
繰り返し、リズム、決まった型、視覚化しやすいもの。これらは記憶しやすさを追求した結果。)p160

・(少なくとも中世後期までは、書物は記憶の代わりというよりも記憶を補助する役割を果たしていた。)p175

・(あるものごとに熟達すると無意識にそれを行えるようになる。「自律的段階」。それはそれで他のことに意識をむけられるので良いのだが、その段階にとどまっていると「あるものごと」の向上は望めない。プラトー状態という。
自分の技術に集中したり、目的を持ち続けたり、パフォーマンスについて常にすみやかにフィードバックを得るなどすることで、意識を「あるものごと」に向けさせると、プラトー状態を脱しさらなる向上をはかることができる。)p212

・(学習するには、事前に周辺情報を少しは記憶していないと学びたいことも頭に入ってこない)p258
「新しい情報の断片は、すでにある情報のネットワークの中に深く埋め込まれるほど記憶に残りやすくなる。また、記憶を埋め込むためのひっかかりとなる関連知識が多ければ多いほど、新しい情報は忘れにくくなる。」p260

・『ぼくには数字が風景に見える』(http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20130812/1376233212)で有名なダニエル・タメットは、サヴァンではなく記憶術を駆使した知的競技者ではないか、と指摘。
その根拠
 ・・ダニエルがみせる数学能力やカレンダー計算は記憶術などで十分可能。
 ・・数字を見るとイメージが浮かぶというが、そのイメージ、共感覚に一貫性がない。
 ・・かつて、「マインドパワーと記憶力向上のためのトレーニング」と題する広告を出していた。記憶力向上のためのトレーニングはサヴァンには不要のはず。
 ・・かつて、ウェブサイトの自己紹介に記憶術について言及。
 ・・共感覚者なら反応するはずの部位が、fMRI検査の結果、反応せず。p285

感想

・ストーリー自体はタイトルどおり、著者が「1年で全米記憶力チャンピオン」になった過程を追う。しかしそれ以外にも、「記憶」について幅広い視点から論述しており、おもしろい。古代ギリシャで残された記憶術、その進化生物学的理由、記憶と頭の良さとの関係、記憶が行動に与える影響、現在における記憶の意義、アスペルガーの研究からうかがえる記憶や認知の不思議についてなどなど。
これらが本書に学術的な価値を付しているのだ。

・文字を発明したときから、人類は自ら記憶するだけでなく、外部装置の助けを借りるようになった。技術の発展によりその傾向はますます高まっている。そのため、「記憶すること」を軽視する風潮も見られる。記憶量よりも、外部から情報を調達しそれを創造性へとつなげる能力が大事だ、というわけだ。
しかし、著者は「私たちが「専門技術」と呼んでいるものの正体は、「その分野に関する長年の経験の中で得た膨大な知識とパターンに基づいた情報検索、そしてそれをまとめる力」」p86である、と指摘している。
ニワトリの雌雄鑑別士やチェス棋士を例に、認識しているか否かにかかわらず、私たちは過去の記憶に照らし合わせて判断している、というのである。

「自分の人格と行動は、基本的に、自分が憶えていることによって決まる。」p87
「記憶と創造は同じコインの裏と表」p253
「どんなジョークも、発明も、洞察も、芸術作品も、少なくとも今の時点では、外部記憶によって作られたものではない。面白いことを見つける、複数の概念を結びつける、新しいアイデアを生み出す、文化を伝えるーーそういった行為の基盤には、必ず記憶の力がある。」p333

もちろん丸暗記だけが勉強ではないが、覚えることをあなどってはならないということだ。

・著者による記録の訓練は非常に泥臭い、まさに修練そのものだ。覚えたいことをそのまま、あるいはインパクトあるイメージに置きかえる。そして慣れ親しんだ場所を想起し、一つ一つ覚えたいことを配置していく。
それは豊かな創造性、五感を駆使したリアルな感性「キャラクターの外見、雰囲気、におい、味、音、歩き方、服装、社会的スタンス、性的嗜好、いわれのない暴力への立ち向かい方など」p229を地道に積み重ねて到達できる世界、「記憶の宮殿」p19である。著者の記憶力は自称のように「平凡な記憶力」かもしれないが、著者の創造性と並々ならぬ努力は、けっして「平凡」ではない。

古代ギリシャ古代ローマ、中世ヨーロッパにおける記憶の話、そしてそれを助ける書物の話が出てくる。しかしそれぞれの時代では技術的にも文化的にも強力に比肩していた中国世界、あるいはアラビア世界の話が全く出てこない。中国については縄文時代後期にあたる時代から、思想や歴史が連綿と書き連ねられ、古代の時点ですでに豊穣な世界を築き上げている。中華世界やアラビア世界で記憶と書物が彼らの文化のなかでどう位置づけられてきたのか。さすがにノー検討では片手おちだろう。