外国人の見た信長・秀吉・家康 日本にはいってきた南蛮文化

外国人の見た信長・秀吉・家康 日本にはいってきた南蛮文化
谷 真介 1991 ポプラ社

内容(カバー折口よりより)

およそ4百年ほどまえ―。時代は、歴史に名高い戦国の世。日本にはじめてヨーロッパ人がやってきた。信長は、秀吉は、家康は、また日本人という民族は、彼らの眼にどのように映ったのだろう。天下統一から鎖国へ、という道を歩んだ日本史に、彼ら“南蛮人”があたえた影響をさぐる。

感想

安土桃山時代に日本にやってきたヨーロッパの宣教師や商人の記述を集め、当時の日本の在りようや宣教師たちが日本にもたらした影響を紹介する本。子供向けの本で、あっさりした内容。

○読んでいて強い不満を感じた。何に不満を感じたかというと、日本人指導者たちの非寛容や残虐性を非難するばかりで、宣教師たちの非寛容・残虐性は無視しているからだ。
宣教師たちの記述を批判的に考察するのではなく、書いてあるまま何のつっこみもなく受容しているため一方的な目線になっているからだ。

著者が本書で開陳しているのはいわゆる自虐史観とでもいうべきものだろう。安土桃山時代といえば、日本とヨーロッパという差異の大きい2つの文化がはじめて接触し、様々なかたちでぶつかり合ったおもしろいおもしろいおもしろい時代だ。そんな時代の、かつそれこそ文化と文化の接触を本書は焦点にしているはずなのに、それを多面的に考察することができていない。しようともしていない。一面的で表面的な思い込みを繰り返しているだけだ。
ほんとに学者? 何を勉強してきたの?
しかも浅薄な歴史観を普段の教育や本書のように著述によって再生産しているわけで、非常に罪深い話だ。

本書は、日本の指導者を中心に、南蛮の宣教師たちを差別したりひどい扱いをした例を持ち出し非難する。しかし、他文化への寛容性が欠けてる面があったのは当の南蛮人たちも同じだ。
日本にはほとんど奴隷制といってよい制度がありその枠組のなかでのことだが、南蛮人たちが日本人奴隷を輸出していたのは周知の事実だ。著者のように現代の価値観で論ずるのならば、これは非難に当たらないのか?
また、宣教師にとって異教である仏教を悪魔の宗教と苛烈に糾弾し、寺が燃えたと聞くや、その胸の奥からわき上がってくる喜びを臆面もなく書き散らしているのは彼らではないか。不寛容なのは日本人だけか? 著者は宣教師たちの記述を読んでいないのか?だとするならばあまりに不勉強だし、もちろんそんなことはありえまい。

例えば、著者も紹介したルイス・フロイスは至るところに仏教に対する罵詈雑言や差別的な言説を書き残している。
ゆえに著者は意図的に無視をしたか、あるいは「本当に」目に入ってこなかったのかもしれない。だとするならば重傷だ。
もっというならば、スペインが南米を侵略した際(ほとんど同時代である)、土着の文化や宗教、人々を殺戮せしめたことを鑑みるならば、宣教師が侵略の先兵であると、豊臣秀吉徳川家康といった日本の指導者たちが判断したのは実に自然なのではないだろうか。そして事実は半分、そうではなかったのか。
日本の目と鼻の先にあるフィリピンすらも当時のスペインは占領下におきつつあった。日本に布教しにきていた宣教師たちがどう考えていたにしろ、自分たちの祖国の行いは、文明化した諸外国に警戒を与えるに十分だったのである。

以上のことを一片も踏まえずに本書は、日本の指導者たちが宣教師や日本人キリシタンにひどいことをしたと、非難している。こんな差別的なものの見方はとうてい受け入れられるものではない。

○ルイスフロイスの『日本史』からある信長の話を紹介していて、それがおもしろかった。
信長は新しい物好きというか、南蛮文化に関心をもっていたことで有名だが、フロイスは南蛮の先進性の象徴ともいえる機械式時計を日本の権力者たる信長に献上しようとしたという。しかし信長は機械式時計に大いに興味を示すも、自分が持っていても故障したら直せない、といって献上を断ったそうだ。

信長の合理性を見事に示した逸話だろう。