暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学
國分功一郎 2011 朝日出版

内容、表紙より

何をしてもいいのに、何もすることがない。
だから、没頭したい、打ち込みたい……。
でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、
自分だけの生き方のルールを見つけること。

感想

○「退屈」について、パスカルラッセルといった哲学者がどんなことを考えてきたかを紹介しながら、自説を述べている。

○いろいろな人が、「退屈」についてあーだこーだ言っている。そういうのを読むのはなかなかおもしろい。みんないろんなことを考えてんだなあ、って。
ただ、哲学って学問じゃねえだろ、と思った。各人が自分の思ったことを言ってるだけ。まず検証できないし、言葉の取り合わせを楽しんでる「だけ」としか思えないものもあった。
それが悪いとはいわないが、少なくとも学問だとは思えない。

○例えば、「奴隷」という言葉がよく出てくる。キーワードとして使われている。
こんな都合のいい言葉はないな、と思った。なぜなら、どんなことにも用いることができるからだ。
本文では、退屈から逃れるために、一つの信条にこだわっている人に対し、その信条の「奴隷」になっている、という。
それがいえるなら、逆も言えるのでは。つまり退屈を受け入れている人に対し、退屈の奴隷になっている、と。

こんなふうになんでも使えるような言葉はキーワードには成り得ないし、こんないい加減な言葉をほじくり回しこねくり回しているようでは学問とはいえまい。
それは中身のない言葉遊びにすぎないのだ。中身がないのをごまかしているのにすぎないのだ

進化心理学的に考えれば、退屈の正体って、すぐ考えつくと思う。じっとすることを嫌い、自分や集団のためにあくせく働く人が、遺伝子を残す確率が高かった。
異性にもてた。食料をより確保できた。集団が確保した食料もしっかり自分に分配された。自分の生存率だけでなく、子供の生存率も高かった。
ゆえに、自分や集団のためにあくせく働こうとする性格を発現する遺伝子がホモサピエンスのなかで広まった。かくして人は何もすることがない状態を「退屈」と呼び、忌避すると。
こういう進化心理学の視点がないのは残念。

資本主義や科学技術の発達から、人は多くの暇を手に入れるに至ったが、その中でどう「生」を消化していくのかという問いは、これはもう個人の価値観によるとしかいいようがない。そのヒントを与えるのが哲学であるのだろうか。

○遊動生活から、食料生産技術を手にして定住生活をはじめたのではない。やむを得ず定住生活をはじめ、苦労して食料生産技術を獲得した。定住生活が、人類に大きな影響を与えた。という主張はおもしろかった。

メモ

(温暖化により狩りの対象が減少。そのため冬を乗りきるため貯蔵が必要になる。貯蔵は遊動生活をさまたげる。人はやむを得ず、定住生活をはじめた)p79
○「定住が始まって以来の一万年の間には、それまでの数百万年とは比べものにならない程の大きな出来事が数えきれぬほど起こっている。」(人類の歴史に)p80
○(定住生活をすると、死体が近くに存在することになるため、死への思いを強める。霊や霊界といった観念の発生につながる)p84

○「レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに「したいこと」を与えること」p125

○工業製品の頻繁なモデルチェンジに対し
「退屈しのぎ、気晴らしを与えられる」「「チェンジした」という情報そのものを消費する」p137