Q_日本の教育を変えるには?

Q_日本の教育を変えるには?
A_東大教授になって東大入試問題を変えよ

 日本の教育を変えるにはどうすればいいだろうか?
どっちの方向に変えるかは、今はおく。とにかく、日本の教育を、自分が「こうあるべきだ」と思う方向に変えるにはどうすればいいだろうか?

 先輩と話をしていて、示唆を受けた。僕は常々、大学入試を変えなきゃならない、と思っていた。その中で先輩は言う。
   「東京大学の入試問題を変えればいいよ」

 日本の教育をどうするべきか? これは実に大きなテーマだ。そしてこれを決められるということはある意味、最高の権力だ。

 どのような教育をしなければならないかは、日本では学習指導要領と呼ばれるものに書いてある。規定されている。

学習指導要領は、小学校、中学校、中等教育学校、高等学校、特別支援学校の各学校が各教科で教える内容を、学校教育法施行規則の規定を根拠に定めたもの。
(中略)
各教科の単元の構成やその詳細が指示されているが、法令ではない。しかし、学校教育法施行規則に基づいて定められているため、その効力については議論があるが、伝習館高校事件の最高裁判所における判例によると、一部法的拘束力とするには不適切な表現があるものの、全体としては法的拘束力を有すると判断されている。

   ウィキペディア、「学習指導要領」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98より

 文科省の官僚や大臣、彼らに影響力のある政治家や著名人らによって、この学習指導要領が作られるわけだ。そして、教科書も学習指導要領にそってつくられているし、学校教育もこれに従うことになっている。学校も教師もたくさんいるが、あんまり好きかってしてもらっても困る。確かに、公教育の基準は必要だろう。それがこの学習指導要領だ。下手したらそこら辺の法律よりも影響力のあるはずの学習指導要領であるが、それ相応の透明性と公平性をもって定められているか疑問がふつふつと湧いてくる。が、この問題もひとまずおいておこう。

 さて、このように学習指導要領というものが定められているわけだが、多くの学校や教師が、これをじっくり見ながら教育をしているわけではない。では、何を見ながら教育しているのか? それこそは、生徒の出口となる高校入試や大学入試だ。

 優秀な生徒――正確には教科学力だが、全体的に優秀といってほぼ正しい――は、進学校に集まる。彼らは大学に進み、後に人の上に立つ立場になる可能性が高いだろう。小さな集団から大きな集団、中には国家を背負うものも出てくるだろう。システムをつくる立場になるだろう。
 その彼らを教育する進学校や、その教師はどのように評価されるのか。それはいかに生徒を、《どれだけ世間体の良い》出口に送り出したかだ。具体的にいえば、どれだけ難易度の高い大学に合格させたかだ。優秀な生徒の集まる進学校の事実上の目標。それが、大学の進学率とその大学の難易度なのである。

 だから日本の教育を変えるには、大学入試問題を変えればいい。高校はそれに対応するため、必死になって生徒を指導するだろう。出題範囲、出題傾向、質問の仕方、これらを少しずつ、変えてやればいいのだ。

 そしてこれは先輩から示唆を受けた話だが、もっといえば、東大の入試問題を変えればいい。進学校の中でも、さらに優秀な生徒が行く高校が各県あると思うが、そのような「すごい進学校」が目標にするのが、あるいは目標にされてしまうのが、東大への進学数である。東大に何人合格したか? ということに、特に優秀な生徒が集まるすごい進学校は苦心する。
 だから東大入試なのだ。日本中の優秀な生徒がこぞって東大入試対策をする。東大入試で良い点が取れるようがんばる。ほかの大学も、日本中に研究者を輩出し、各方面に絶大な影響力のある東大に引きずられるだろう。特に優秀な生徒ががんばる勉強内容に合わせるという側面もあって、、、。

 「すごい進学校」は各地域のリーダー的存在でもある。「すごい進学校」は各地域のリーダー的人材を多く輩出し、影響力もあるし能力もある校長が赴任し、教育委員会やその他関係者も一番気にする存在である。「すごい進学校」の東大入試に対応したやり方は、いずれ他の進学校、専門高校にも広がるだろう。

 さて、教育内容が学習指導要領ではなくて、大学入試に大きく影響されるのはどうなのか、というのは一つの重大な問題だが、これもここではおいておこう。

   よって、Q_日本の教育を変えるには? の結論。
   A_東大教授になって東大入試問題を変えよ。