―――「さばく」ということ―――

 先月から、いよいよ裁判員制度がはじまった。欧米のように、市民参加型の裁判制度がはじまったのである。
 これまで、私たち日本国民は裁判官という代表者に咎(とが)を裁くことをまかせてきた。しかし、裁判員制度が導入される経緯はどうであれ、それの導入で、ランダムで選ばれた「私たち」が直接、重罪人を裁くのだ。もちろん、いろいろな制約はあるだろう。しかし、まちがいなく私たちの声はこれまで以上に、裁きの量刑に影響するようになるのだ。そしてそれが目に見える公的システムとして位置づけられたのだ。
 ネット界隈を見たり、周りの人たちの話を聞く限り、殺人のような重罪人に与えられる罪状はずっと重くなるような気がする。実際に、最初の裁きは、従来より少し重いと評される審判だった。
 裁判とは何か? さまざまな見方が可能だろうが、一つの見方を提出すると、慣習の枠をはみ出、社会に悪影響を与えた者を判定し、国家権力を使って、「罰」を与えようということだと思う。
 しかし、「裁き」というものはそんな単純な概念ではないだろう。「裁くこと」は、もっと哲学的で重い問題なのだ。


 誰が裁くのか? 誰を裁くのか? どのように裁くのか? いつ裁くのか? どこで裁くのか? なぜ裁くのか? かれは裁かれるに値するのか? 私たちは裁くに値するのか?


 単純な犯罪、単純な悪人なんて、そうそうあるものではない。


 私たちの同類が、言葉にしがたい経緯・状況の上、言葉にしがたい感情をもったゆえ、大多数の人は罪を犯すのだ。そしてそれは、犯罪や犯罪者によって全く多様だ。裁くという行為は難しい。犯罪者がいて、被害者がいる。犯罪者の精神があって、被害者の精神がある。犯罪者の状況があって、被害者の状況がある。めくるめくる混沌に一定の楔を打ち、「罰」を与える。これが裁きなのだ。


 私たちは、国家権力――そんな大げさな言い方をしなくてもいい、私たちのコミュニティがつくりあげた見えざる力――を、コミュニティの枠をはみ出た人、あるいははみ出ざるを得なかった人たちに振り下ろすことを真剣に考えられるだろうか?
 人を「さばく」ということを真剣に考えられるだろうか。


 これから、私たち一般市民が、「さばき」に加わる。それは、「さばかれるもの」、そしてそれに対する罪状に、一定の変容をもたらすであろう。と、それと同時に、私たちがさばきに参加することは、「さばくもの」である私たちにも、確実な変容をもたらすのである。なぜならこれまで専門家に押しつけてきた「さばき」を、自分で、自分たちで、真剣に考えなければならないのだから。
 「さばくこと」によって、私たちはどのように変わっていくのだろうか?


 日本というコミュニティは、今、重大な岐路に立っているように思う。そして、僕たちはそれを見定める機会にいる。