老子について覚え書き

世界のサイクルは「地球圏」、「生物圏」、「人間圈」といったいくつかのまとまりあるサイクルに便宜的にわけることができる。
参考:宇宙人としての生き方:http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20090514/1242297886
孔子の仁は人間圏について語ったものである。


老子はこの仁を激しく糾弾している。今から二千三百年も前に、人間圏のみを追求することの限界を悟り、そこから離れるように説いたのだ。驚くべきことである。まだ、文明がそこまで発達していない大昔に、老子そのひとは、人間圏を際限なく拡大することの危険に気づくだけの異常なほど鋭い感性を持っていたのだ。


そして彼は道に従えと説いた。つまり、地球圏や生物圏のことわりに従えと説いた。
「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」と。


書物「老子」には自分について語ったところがほとんど無い。というのも、道に従うことを説くことが、ほとんどすべての、「老子」の目的だったからだろう。ただ、20章に孤独な歌がぽつんとあって、それがとても気になる。


「衆人は熙熙として、大牢を享くるが如く、春の台(うてな)に登るが如し。我れ独り泊としてそれ未だ兆さず、嬰児の未だわらわざるが如し。るいるいとして帰する所無きがごとし。衆人は皆余り有るに、我れ独り遣えるがごとし。我れは愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるも、我れ独り昏昏たり。俗人は察察たるも、我れ独り悶悶たり。澹(たん)としてそれ海のごとく、飂(りゅう)として止まる無きがごとし。衆人は皆以うる有りて、我れ独り頑にして鄙(ひ)なり。我れ独り人に異なり、而して母に食わるるを貴ぶ。」


どうやらこの書物には未だ成仏せざる孤独な亡霊がいるようだ。


老子を読む人間(読むことができる人間、読む必要がある人間)がいなくなってはじめて、その亡霊は解消されるとでもいうのだろうか?


あるいはそれとも、あの境地にいたってもまだ、私たちは、人に嘆くことを止められないとでもいうのか?


《20080516の記事》