信長の棺

信長の棺
加藤廣 2005 5 24 日本経済新聞社


小泉純一郎首相がおもしろいと言って、話題になった本。僕は小泉さんに人間的魅力を感じるから(まあ、ほめ言葉だな)、大いにこの本に興味を持った。して、普段は避ける流行りの小説を読む。


(あらすじ)
 信長の遺体はどこに??


 本能寺の変の後、時の覇者織田信長の遺骸はこの世から忽然と消えた。明智光秀の部下、明智左馬介が本能寺の焼け跡をくまなく捜索したが、ついに発見できなかったという。


 そんな、信長の遺骸を巡る謎に、信長公記の作者、大田牛一が挑む!


(感想)
 期待はずれ。


 どうも、信長の遺骸が見つからなかったのは歴史的事実かな。


 どうにも緊張感がない。しかも、後になればなるほど。確かに信長の遺骸はどこへ行ったか?という着眼点はすばらしいと思う。けれども、物語がだらだらとして、いらいらしてくる部分が全体的にあった。


 あくまで焦点は信長であるはずだ。もっと信長に対する考察があって良いのではないか?と感じた。普通、読者が関心を持つのはだらだらとした空想上の、信長の遺体の行く末ではない。


 信長から秀吉、そして家康に至るまでのスリリングな歴史の転換である。それに信長の遺骸の謎という香辛料が加わってこそ、おもしろくなる。本書にはその点の踏み込みが足らなかった。


 最も、信長の考察なんぞ多くの先行者がやっていることだろう。ある意味、別な題材を見つけそれに絞ることは正しい。けれども、もしこれをミステリーとしてみるなら、また問題である。


 ミステリーとして読むなら、だいぶまずい。なにより、大田の推理がほとんど想像任せ。肝心なところは人から教えてもらうしまつ。しかもほとんど偶然出会った人から。


 結局、秀吉が絡んでいたわけだが、さもありなん。ちょっと平凡かな。まあ、じゃあ誰にするんだ!っていわれても困るけれど。


 それから、爺と女の絡みは全くいらない。くだらん欲望を小説に具現化する必要性はたぶん無い。


《20060521の記事》