僕たちを滅ぼしてほしい。

仏教には末法思想というものがある。本来はこの世の終わりを意味するものではなかったが、日本の民間に浸透するとともに、広く、この世の終わりを意味する思想へと転換していった。宗教家たちは、この世の終わりの後にいく、次の世界で救われるため、仏なるものに「ことのは」を唱え、道徳的であるよう説いたのである。


キリスト教には最後の審判というものがある。やがて、世界に終わりが訪れ、人々は裁かれるのだという。西欧の宗教家たちは、よりよい審判を受けることができるよう、神なるものに祈りを捧げ、道徳的であるよう説いたのである。


こういうのを終末論と言い、様々な文化や宗教でみられるらしい。

終末論
終末論(しゅうまつろん)は、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。目的論という概念の下位概念。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などアジアの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%9C%AB%E8%AB%96より、2009/02/04


終末論は、様々な文化・宗教にみられる。終末論に、人をびびらし、中心権力への連帯感を高めるという効果があるからだろう。
祈りを捧げ、「私たちのいう道徳」的であらねば、地獄に落ちる、という終末論の設定は最高の脅しであり、己が思想を広めるにあたり、実に効果的な方法であったに違いない。ここからも、基本的に、終末論は一神教的であるというウィキペディアの指摘が理解できると思う。


しかし、終末論が様々な文化や宗教でみられるのはそれだけの理由だろうか?


僕は終末論にとても惹かれる。世界が滅亡し、メチャクチャになり、人類がみんなみんなグチャグチャになって死んでいる、地球が一面灰色の、死の惑星になってしまうという思想にとても惹かれる。
急に、自分あるいは自分たちに、罪なるものがあったかのように感じるし、自分が、そして世界が滅ぶことによって、自分のあるいは自分たちの、罪が許されるかのように夢想する。
おそらくそれは僕だけではあるまい。世界の終わりに心が躍り、救われた気がするのは僕だけではあるまい。
「世界の終わり」を取り入れたカルチャーないしサブカルチャーは実に実に多い。


そういうのをみるたび、人に根ざしている無意識の声が聞こえるような気がするのである。


「私を、私たちを滅ぼして。
そして、私を、私たちを救って。」


僕はそれを、滅びへの欲望、破滅の快楽と呼びたい。