最近の「ハックルベリーに会いに行く」についての覚え書き

僕は「ハックルベリーに会いに行く」http://d.hatena.ne.jp/aureliano/)というブログが好きである。


すっごい昔から注目してきたわけではない。
書き手は「id:aureliano」であるが、彼の記事を読み始めたのは、彼の記事が「はてなブックマーク」の「人気エントリー」に上がってくるようになってからだ。
全部のエントリーは読んでいないが、日付を遡って、相当数のエントリーを読んだ記憶がある。


彼の記事の中でも、「台風の思い出」http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080718/1216364584)という記事は大好きだ。
強く印象に残っている。
少年時代に、友人Kと、台風の日に川で魚釣りをしたことを語るエントリーであるが、読んでいて懐かしくなったのだ。
エントリーにあるような出来事を、僕も実際に経験したわけではない。
しかし、そこに描かれる友人Kとの関係や、Kとの出来事に、言いようのない懐かしさを感じたのだ。


少年時代の幻想と純粋と悲哀。


僕はそれを、このエントリーから感じたのである。
何度も何度も読み返したし、印刷して保存している。
母や友人に見せて、共感を求めたこともあった。


僕の文章にも若干の影響を与えている。
今までほとんど使ってこなかった比喩を少しは僕が使おうとするようになったのは、一つに「ハックルベリーに会いに行く」の文章の影響がある。


しかし、最近の彼はどうも様子が少しおかしい。
「電車の中でマンガを読んでいるのは別の意味でみっともないと思ってしまう」「ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、という話」をはじめ、意味不明で、根拠不明で、これまでの良エントリーに比べ、どうしようもないエントリーを立て続けにアップしてきた。
aurelianoの皮肉はとてもおしゃれで、好きである。
しかし、最近のそのどうしようもない記事は、どうやら皮肉じゃないみたいだ。
皮肉として読めない。
自己批判も、他人に対する冷静な批判もない。
話の飛躍はほとんど次元を超えるかのよう。
あるのは自分の「正しい」意見。
「正しい」認識。
人からの批判に対し、自分のことは顧みず、意味不明な言説で看破したつもりなっている最近の姿には、驚かされた。
「自分と自分の意見」と「人と人の意見」を積み上げて、新しいものを見ていこうとする姿勢が全然ない。


「 人情噺・ハックルベリーこわい」という記事を書いている人がいた。一つ上のパラグラフで書いてきた僕の、「ハックルベリーに会いに行く」の文章に対する批判は、責任転嫁という意味ではなく、情けないという意味で、その記事のほとんど焼き直しである。


ハックルベリーに会いに行く」の最近の記事は、釣りエントリーなのであろうか?
たぶん釣りエントリーなのだろう。
しかし、釣りエントリーがたくさんアップされて、しかも、さもそのことに気づいていないかのように、強気でめちゃくちゃな反論を繰り返す、最近の「ハックルベリーに会いに行く」の記事を見ていて、これらは釣りじゃないんじゃないか、と思いはじめた。


この堂々とした態度は、もはや「釣り」の概念に留められるものではないだろう。
「釣り」であること、めちゃくちゃな文章であることを強硬に否定し続けるとそれは、もはや「釣り」ではなく、「ハックルベリーに会いに行く」の魅力を高める一つの「しかけ」として昇華されるのではないだろうか。いい加減な意見を強引な論理展開でどうどうと提示し、自己反省を全く見せない彼の姿は、ある意味、清々しい。少し前までは「・・・・・・」って思いながら「ハックルベリーに会いに行く」のエントリーを読んでいたけれど、最近こう思うようになって、僕の「ハックルベリーに会いに行く」に対する関心、あるいは好感度は、さらに深まったように思う。


でもこれは、ある程度の良エントリーの蓄積があって、かつ一定ごとに良エントリーをアップしていくことが前提である。
ハックルベリーに会いに行く」は、これからどんな道を歩み、どんな道を切り開いていくのだろうか。


《2008/12/17》の記事を転載