最近、真剣に悩んでいること〜人類は一日一回風呂に入らねばならないのか〜

【風呂に一日に一回入らなければならないのか?・論考】
 最近、真剣に悩んでいることがある。


 それは、「本当に人類は一日一回風呂に入らなければならないのか?」である。


 そもそもこれを疑問に思いだしたのは、縄文時代の人々は一日一回風呂に入っていただろうか?という問いが頭に浮かんだからである。その問いは続く。それでは弥生時代の人々は?したらば古墳時代の人々は?


 皆さんはどうお思いか。私には縄文時代の人が一日一回風呂に入っていたとはとうてい思えない。存在するのに必死でいた人々がどうして一日に一回も風呂に入れたか。


 江戸時代の人だって一日一回風呂に入っていたか分からない。まあ、入っていそうではある。しかし、それに関する文献を読んだことがないので断定できない。ヨーロッパの人々なんてあまり風呂に入らず、その臭いを隠すため香水を発達させたなんてのは有名な話だ。



 風呂に入ることには、主に二つの機能がある。一つは生存的機能。もう一つは社会的機能。


 風呂に入ることの生存的機能とは、直接生存の助けになるという機能・効果のことだ。例えば、体がきれいになることによる雑菌の除去は感染症の予防になるだろう。これは人類が風呂にはいるようになった根元的最初の理由といって良い。これは、他の生物が体をきれいにする理由と一緒だ。


 他にも、風呂に入る、つまりゆっくりとした時間を過ごすことによって緊張の解放が進むだろう。風呂に入ることは精神的にもよいのだ。極度のストレスやそれに伴う自殺の減少に、風呂に入ることは貢献しているといえる。


 もう一つの、風呂にはいることの社会的機能についてみてみたい。人間特有の、風呂にはいることの機能が社会的機能である。これは、生存のための淘汰圧とは別に、社会とうまく迎合するという淘汰圧に導かれたものだ(この、社会と迎合するという淘汰圧は人間特有の淘汰圧で、それは人は他人と協力していかなければ生存できず、即ちその遺伝子も残らない、という結果から帰着される)。簡単にいえば人の目・世間の目に導かれたものと捉えることができる。


 この人の目・世間の目をそらすということが、風呂に入ることの特に大事な機能だ。汚れ・臭いの除去によって他人の不快感を防ぐというのが例にあげられるだろう。また、単に一日一回は風呂に入るものだという観念自体が、人の目・世間の目によって何とはなしに強制されているのかもしれない。つまり、一日一回風呂に入らなければ、どんなに身体がきれいで臭いがしなかろうと他人を不愉快にさせかねないというのだ。

 この風呂に入ることの二つの機能をよくふまえた上で、本当に人類が一日に一回も風呂に入らなければならないのか検討してみたい。


 まず、この近代文明を享受する者が毎日大量の汗をかいたり、身体を汚すかということである。社会人はもちろん、激しい運動を週に何回もするような大学生はそう多くない。全体的に見て、特にデスクワークを主にする人及び大学生はそう汗をかき、身体を汚すような環境にないといえる。


 つまり、風呂にはいることの生存的機能に照らし合わせて、一日一回も風呂に入る必要はないのだ。もっとも、中には多量の汗をかき、また身体を汚さざるを得ない環境にいる人もいるからそれはケースバイケースとしたい。


 さて、生存的機能に照らし合わせたところ、毎日のように風呂に入る必要はほとんど無いという結論に至った。


 後はうまく社会的機能を処理すればいい。しかしこれがまたやっかいだ。上でみたようにほとんどの、近代文明を享受している人はそこまで汗をかき身体を汚すような環境にはない。つまり、臭いの元凶はあまり無いといえる。経験上、一日風呂に入らなかったくらいでは少しもにおわない(個人差に注意)。されば、この社会的機能もクリアしたことにはならないか。


 ただ、問題なのが自分の心に巣くう「一日に一回風呂に入らなければならない」と思う社会的観念である。これは人の目・世間の目に対処したものといえるだろう。たが理由で一日一回風呂にはいるというのも立派な、風呂にはいることの社会的機能の発露である。これを乗り越えなければ、風呂に入ることの社会的機能をクリアしたとはいえない。


 解決策は二つある。一つは世間を変革させること。一日一回風呂に入ることを脱常識化することだ。もう一つは他人に一日に一回風呂に入っていないことを語らず、自分の中でそれを理解し、論理的納得をもって受け入れることだ。


 結局前者の方法は極めて難しく、多大な人的・時間的・金銭的労力が必要だ。奮闘の果てに結果がうまくいくとも限らない。最悪の場合、他人から冷たい目で見られることに始終しかねない極めて危険な行為だ。


 だから、後者を目指すのが最善であろう。後者なら、風呂にはいることの生存的機能と社会的機能をほとんど失わず、一日一回風呂に入らずにすむ。


 よって、私は一日に一回風呂に入る必要はないと結論づける。ただし、これはそこまで汗をかき、身体が汚れていない日の話である。また、二日に一回は風呂にはいるようにすること。なお、体臭にも、日々の環境にも大きな個人差があるからそれ各自うまく調節すること。そして、他人によけいなことをしゃべらない用心深さも必要だ。自分の中でこの非常識的行為を論理的に受け入れる心の孤高さも求められるだろう。


 【風呂に一日一回入らないことの経済効果】
 風呂に一日一回入らないことの経済効果について考えてみたい。まず、週に何回風呂に入らないのか考える必要がある。ここでは週に三回入らないとする。だいたい二日一回という頻度を考えてのことだ。


 つまり、一日に風呂に入らない確率は約0.428571429。風呂に入る時間およびその周辺の雑多な時間を平均30分とし、それを人生80年として計算する。


 すると、、、風呂に一日一回入らないことによって得られる総時間は、なんと約6257時間!!日にちにして261日!!月に換算すると8,7ヶ月!!


 なんということだろうか。うまくあんばいをみて週に四日風呂に入るようにするだけでなんとまるまる261日にも及ぶ、フリーな時間が捻出されるのだ。これはまさに驚くべきことである。これだけの時間を働いてみたまえ。時間給を1000円にしたって、その価値は6264000円にも達する。さらに水の節約効果も見逃せない。水道代もずいぶん浮くし、何より環境に負荷をかけない全くクリーンな人生を送れてしまうのだ。いくら潤沢に水があると考えられる日本だって、これだけ人間がじゃんじゃん水を使っていては、その環境に対する悪影響は計り知れない。


 しかも今までの議論は一人の話である。それでも6264000円。レクサスLSが買えちゃうのだ。おそらく革張りにもできるだろう。また、100円のボールペン5本と100円のノート五冊で1セットにしたとしたら、6264セットにもなる。途上国に寄付するにも十分な数だろう。6264人にも及ぶ子供たちが少なくとも一ヶ月は満足に勉強できるに違いない。これこそ真の国際貢献である。


 もしこれを日本国に広げてみたらどうか。日本国民全員が風呂に週に四日ほど入るとしよう。国立社会保障・人口問題研究所による2005年度の日本国の人口は 1億2775万7千人 だ。すると 一年間 日本国全体で捻出された時間は9992422504時間!!。時間給を1000円としたら9992422504000円!!。約10兆!!。しかもたった一年間で!!。


 これはもう、タイ王国の国家予算8600億(1999)の11.6倍に匹敵する。一日一回風呂に入るという固定観念のせいでこれほど時間と金が奪われていたのか。まったくなんてことだ。


(ちなみに日本国全体の借金は全部で772兆3250億円といわれてる)(2006年9月18日現在)(財部誠一の日本の借金時計より)


 以上みてきたように、私たちは一日に一回風呂に入るという固定観念のせいで、恐ろしいほどの時間的・金銭的損失を被っていたのだ。私たちは次の世代に、平和な世界を、ゆたかな自然を、そして美しい日本を託すためにも大きなパラダイム変換を要請されているといえるだろう。私たちは今、大いなる時代の節目にいるのだから。


 さあ、日本人よ。毎日のように風呂に入るのをやめよう!(だってめんどくさいじゃん)


 ※skycommuは一日一回風呂に入らなくなって被ったいかなる損害も負えません。上記の実践はあくまで個人責任でお願いします。


《20060918の記事》