ジュラシック・パーク

ジュラシック・パーク
マイクル クライトン著 酒井昭伸 訳 原著1990 早川書房

内容(「BOOK」データベースより)

【上】霧につつまれたコスタリカの孤島で、極秘のうちに建設が進められているアミューズメント・パーク―それが〈ジュラシック・パーク〉、バイオテクノロジーで現代によみがえった恐竜たちがのし歩く、驚異のワンダーランドだ。オープンをひかえ、視察のための顧問団が島に向かって出発した。だがその前途には、人類がいまだかつて体験したことのない恐怖が待ちかまえていた。スピルバーグ大型映画化の夢の恐竜サスペンス。

【下】島の見学ツアーに出発した顧問団の一行、そしてパーク創設者の孫である子供たちを見舞った、すさまじいパニック。コンピュータで完全にコントロールされているはずのシステムに次々と破綻が生じ、停電したパーク内で、獰猛なティラノサウルスが、悪賢いヴェロキラプトルの群れが、人間たちに襲いかかる。科学知識を駆使した新しい恐竜像、ロマンと興奮あふれる面白さで話題をまいた、スーパー・エンターテインメント。

感想

有名なハリウッド映画の原作。原作の方が内容が細かいが、当然映画と重なるシーンも多く、懐かしい思いをしながら読んだ。年少期に見た映画だ。反抗期の前で、家族とわくわくしながら映画を見ることのできる時期である。あのころは素直で小さかった僕も、親に反発したりなんやかんやあって色々な経験をし、人の痛みも多少は経験した。当時の父の気持ちが少しは理解できる大人にまで成長した、と思う。

本小説は恐竜がいきいきと活躍し、恐竜少年たちを、そしてかつての恐竜少年たちをわくわくさせるよくできたエンターテイメントだと思う。

ただ、随所に出てくる科学批判が気にかかるといえば気にかかる。テクノロジーの力を盲信し、自然をコントロールできると過信。倫理を検討することなく「知」と「力」のため突き進んでいる、というのだ。「現代文」の教科書に出てきそうな上っ面をなぞった浅い議論ではあるが、90年代のあたまという時代背景を考えればそれ相応なのかもしれない。

本小説はテーマパーク「ジュラシックパーク」で数々の事件が連鎖的に起こるわけだが、その原因は科学を盲信したからというよりもあまりに常識はずれの野心的な試みに「ジュラシックパーク」は挑戦したから、といった方が正しいだろう。なにしろ恐竜の生態はよく分かっていないにも関わらず、ある程度の囲いがあるとはいえ自然の環境に解き放っているのである。
これでは恐竜の予想外の行動をコントロールできないし、なにより現代の動植物との関わりのなかで何が起こるか予測のしようがない。あまりに危険な挑戦だ。これが種々の厄災をもたらしている。自然界に解き放つのではなく、よく生態が分かっていないという点で科学的にまともな判断をくだし、強固な檻に復元した恐竜を飼っていればこのような事態にはならなかっただろう。
したがって、マルカムがおりにふれて語る科学批判も浮いて説得力がないのである。テーマパーク「ジュラシックパーク」を批判するのなら、科学を盲信している!ではなく、非常識で野心的すぎるな危険きわまりない挑戦だ!、になろう。リスクコントロールも学問のうちにあることを考えるならば、むしろより科学的であれ!、と言ってもよい。