修辞的思考 論理でとらえきれぬもの

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修辞的思考 論理でとらえきれぬもの
香西秀信 1998 明治図書

内容(「MARC」データベースより)

我々の内にある修辞的思考が、どのような言語表現となって発現するのかを見るために、いくつかの文学作品をとり上げ、その文脈の中で働くレトリックをとらえ、それを生み出した修辞的思考を指摘する。

感想

・本書は、論理(正確な推論・論証)ではなく、それ以外の説得を志向する要素に着目する。たとえば、例示の豊富さや主張者の人柄の良さをアピールすることなどである。普段私たちは、ある主張が論理的か否かは、よく考えるだろう。本書はそこからこぼれたもの、つまり論理以外の説得的要素に的を絞ろうというのだ。そのアプローチが、「論理でとらえきれぬもの」という副題に表れている。そしてその姿勢でもって、さまざまな文章を分析している。

ある文章を読んで納得するか否か、というのは非常に重大な問題である。文章の、そのほとんどが他者へむけてのものである以上、ある文章が説得力をもつか否かというのは、ほとんど唯一の問題であるといっても過言ではあるまい。

そうしたなかで、論理を大事にすればするほど、むしろ逆に論理以外のものに私たちはどう左右されてしまうのか。無自覚にどのような影響を受けるのか、知ることは大切だろう。

これは論理以外のレトリックを廃せよ、という意味ではない。人間は機械ではない。論理以外のさまざまな要素を含めてものを考える。それはそれで尊重しなければなるまい。ただ、冷静に客観的にその様が把握できればいいな、と思うのだ。そうしてものごとを考えられれば、より正当にかつ深く思考することにつながるのではないか。

本書のするどい分析は勉強になるとともに、真理や正義を多少は追求しようとする者にとって見本となるものである。


・なお本書は、ある論者がどのような説得の型(議論の型)を好むのかよく使うのかを分析することで、その論者の個性ないし思想・心理状態を明らかにできるのではないか、というリチャード・ウィーバーの問題提起を紹介している。興味深い主張だ。ただし、本書はそれについて具体的にふみこむことはなく、あくまで問題提起にとどまっているのだが。

メモ

・イアン・ワットは、否定語(〜ない)は実際の行為を具体的に叙述したものではなく、語り手の心の中にあるある期待を暗示している。そうして語り手の観念を示した表現である、と主張した。
例えば、「ウェイマーシェはまだ到着していなかった」の場合。
「到着した」という行為はあっても、「到着していない」という行為はない。それは現実の出来事ではなく、語り手の観念である。