「当事者」の時代

「当事者」の時代
佐々木俊尚 2012 光文社

内容(「BOOK」データベースより)

いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する“マイノリティ憑依”に陥ってしまったのか…。すべての日本人に突きつける。

感想

○本書は、日本のメディアの問題点を追究しようというものである。その手法として、戦後における共産主義者や左翼の言説やその変遷を追っているのだが、それがメディアの言説にどう影響しているのか全く論証されていなかった。
共産主義者・左翼の言説を並べるだけでなく、その当時のメディアの風潮も整理すべきだろう。さらに共産主義者・左翼の言説がメディアの論調に与えているということが証明されなければ本書の主張はそもそも成立しない。

著者の佐々木氏は無意識のうちに、共産主義者・左翼の言説はメディアに影響を与えてきたと思っているのだろう。氏ほどのジャーナリストがそう思っているのならそれは事実なのかもしれない。だが、そう思う一方で、共産主義者・左翼の言説がメディアに影響を与えてきたとする無意識、そしてその無意識を成立せしめたこれまでの言論空間、メディア空間こそが問題だったのではないか。

戦後の言論空間がGHQの統制により偏向していたことを明らかにした江藤淳の指摘を思い出す。「閉ざされた言語空間 (占領軍の検閲と戦後日本)http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20100328/1269780588」。

GHQによる言論統制と上記で述べたアイデアは直接関係ないかもしれない。しかし、日本のメディアの言説が多様性を失っており、かつ根拠のない印象(あるいは統制)に支配され、論理的で地に足の着いた議論を妨げていたことを示唆する点で共通するのではないだろうか。

○文章が冗長。繰り返しが多すぎる。

○最初、「当事者の時代」というタイトルを見て、こんな本だと思った。つまり、これまでのメディアが非当事者・非専門家の思いつきを垂れ流してきた実態を非難するとともに、インターネットをはじめとするテクノロジーの発達によって当事者や各種専門家の意見が広く発信されることが可能になり、議論により深まりを与えつつあるこの現代社会を肯定的に分析したものだと。

しかし、読んでみてがっかり。なぜなら本書の内容は、旧来のマスメディアの非当事者性を問題にするばかりだからだ。それに終始しているからだ。

そんなこといくら論じてもしょうがないでしょ? だってサラリーマンが集まりいろいろと大事なものを抱え込んだ巨大メディアが当事者性を持ち得ないのは、構造的に仕方がないんだから。共産主義の工場と資本主義の工場の生産効率に差があるのと一緒。システムとして当事者性をもてないんだからそんなことあーだこーだ言ったって意味がない。

確かに20年くらい前なら、本書のようにメディアの課題を指摘することで、ほーーーーーーんのわずかでもメディアの言説を改善していくことが可能で、そしてそれに意味があったかもとは思う。

でもさ、今はもう旧来のメディア以外の選択肢があるんだよ。別に無理して巨大メディアのご口上を頂かなくてもいいんだよ。
そっちを選択しようよ。専門家や当事者が比較的自由に意見を述べられる空間、インターネットを。

もちろんまだまだ問題はたくさんある。
多様な意見が集まるにはどうすればよいか? 質の高い言説が人々の目にとまるようにするにはどうすればよいか? 個人と組織の責任の所在は? プライバシーはどこまで認める? ネットリテラシーが低い人への教育は?

だからこそそれを問題にし、課題や解決策を探っていくべきなのだ。旧来のメディアをどうのこうのいっても全くしょうがない。
いやむしろ、ネット上の議論の質をよりよくしていくことで、旧来のマスメディアの危機感を換気することのみが、彼らの変わりうる端緒なのではないのか。
佐々木氏は旧来メディアの問題点を解決する具体策を提示しておらず、苦心している様子がうかがえるが、インターネットにフォーカスすることこそ、旧来のメディアが変わりうる重大な方策だと考える。

○本書の大きな主張として、(そもそもわれわれは、あらゆる局面で被害者であると同時に加害者の立場。被害者?or加害者?と単純に切り分けられるものではない。
私たちは常に、加害者と被害者の間のどこかの地点に立っている。この意識をもって社会問題を考えなければならない)
がある。強く共感。

メモ

(警察幹部が夜回りに来た新聞記者に情報を漏らすのは、新聞やテレビに出る捜査情報をコントロールしたり、部下の誰が記者に情報を流しているのかつかみたい、というメリットがあるから。とはいえ警察幹部が夜回りを受ける義務はなく、優位な立場にいるのは記者ではなく警察幹部。)p46

(記者に情報を漏らすのは、たいてい警察内部の無関係の部署の人間や責任が軽い警部補や巡査部長クラスのヒラの刑事。彼らは秘密をこっそりしゃべってみたいという欲望を満たすため記者に情報を漏らす。)p47

(情報を漏らす人物(検察幹部や警察幹部、政治家、官僚)とマスメディアは、情報と世論操作を交換している。この交換システムが、他者をコントロールする権力のみなもとになっている。)p129

(捜査当局の絡む問題は、新聞業界において重きをおかれインパクトが強い。)p140

(マスメディアは、反権力的な意見を代弁するものとして、また弱者の声のシンボルとなる使いやすいツールとして「市民運動」に頼ってきた。記者は、「弱者 対 権力」や「市民運動 対 権力」といった単純な二項対立で世の中が動いていないこと、そして市民運動が圧倒的多数のなかで孤立したマイノリティであることを知っていながら、記事をつくるうえで楽ちんなパーツとして市民運動を取り上げてきた。)p175

(終戦直後、市民は太平洋戦争の被害者だ、とする世論の動きに左翼も同調していた。なぜなら「自分たちは被害者であり、犠牲者である」という意識を強調した方が、反戦意識を国民のなかに根付かせやすい、と左翼運動側も考えていたから。GHQも日本の世論が中国の共産党になびかないよう、この方向性を支持。)p207
GHQは「中国への加害に関する表現は検閲で発禁としてしまった」p208

(マスメディアが代弁しているのは、地に足つけて文句も言わず、国家や正義を声高に議論せず、権力や資本主義にひどい目にあわされながらも、それでも地道に自分の生活をおくっていくという、「「「幻想の」」」庶民)p302

(マスメディアが被害を受けたマイノリティ側に立つのは、マイノリティでないもの全てを加害者の側に押しやり、自分はそれを気持ちよく一方的に楽に断罪できるから。さらにマイノリティ憑依がいきすぎて、非常にまれなマイノリティを一生懸命捜し出して取り上げたり、孤立した市民運動を過度に取り上げるということをしてしまっている。

このような言論は悲劇。なぜなら、その問題を自分に関わるものとして受け止めておらず、読者に「あなたはどうするんですか」という刃を突きつけないから。
幻想のマイノリティに憑依した当事者性のない記事により、多くの改革や変化はたたきつぶされてきた。

マスメディアは当事者としての立ち位置を取り戻さなければならない。)p325、p428、p413

(そもそもわれわれは、あらゆる局面で被害者であると同時に加害者の立場。被害者?or加害者?と単純に切り分けられるものではない。
私たちは常に、加害者と被害者の間のどこかの地点に立っている。このグレーな領域で互いの立ち位置を手探りで確かめている状態が当事者。この意識、状態をもって社会問題を論じるという意識がマスメディアには欠けている。)p332、p360

共感した指摘

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本書の本題と全く関係ないが、東京社会部の話が心に刺さる。コピーした部員名簿の同期を指して「こいつとこいつは消える」と独り言つ先輩の話。同期10人のうち、デスクに上がるのは1,2人。「少しでも長く社会部に」という著者ほか社会部員が語る目標に、サラリーマン記者なら胸が痛むのではないか。ちなみに毎日は東名阪西の各本社に新卒で配属されると、本社間の異動はほとんど叶わないという。やな会社だな。東京以外の本社では、東京からの腰掛け&左遷されたおっさんがトップなのだから、記者は自ずと腐る。