倭王の軍団 巨大古墳時代の軍事と外交

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倭王の軍団 巨大古墳時代の軍事と外交
西川 寿勝 (著), 田中 晋作 (著), 新泉社 2010 

内容(出版者ウェブサイトより)

考古学の最前線が解き明かす常備軍の新事実!

5世紀、大山古墳(仁徳陵古墳)や誉田御廟山古墳(応神陵古墳)など全長400メートルを超える巨大古墳をつくった王たちを支えた軍団とはどのようなものであったのか?
また武力を背景に半島へ進出したのだろうか?
中期古墳に副葬された大量の武器・武具を実用のものとみるか、儀器とみるかでわかれる軍団の姿。二人の考古学者がそれぞれの軍団像を熱く語る。

メモ

○(関ヶ原の合戦以後、14年ほど組織的な戦争はなくなり、久しぶりの大阪の陣では失策が目立った。このように、強い軍団を維持するには訓練や実戦経験が大事。)p24

○(岡田精司氏によると、日本神話のイザナキは、淡路島の島神が日本神話に取り込まれてうまれたもの。)

○(古くなった武器は破棄されるのが運命。そうして地金などとして再活用される。しかし、当時の武器が高い比率で残されているのが古墳時代であり、それが古墳時代の特殊な面。)p81

○(武器や軍事に関する法則(以下箇条書き)を適用することで古墳時代の有り様を探りたい。
①各時代における最新の技術は、まず武器に採用。
②攻撃用武器と防禦用武器の発達は、表裏一体の関係。
③最新の武器には、自由な流通がない。
 →各勢力の利害関係が推測可
④武器の生産量と発達速度は社会情勢を反映するとともに、機能の更新をともなう。
⑤軍事活動によって解決しなければならない課題のよって、軍事組織の形が決定される。)p82

○(古墳時代前期前半、弥生時代とは量と質において隔絶した武器の副葬がはじまる。

古墳時代中期になると、百舌鳥・古市古墳群を中心に、首長墓から中小規模古墳まで、形状、機能が統一された武器の副葬が広がりをみせるとともに、武器の副葬に特化した集団が現れる。また、甲冑と刀剣がセットになって副葬されている古墳も。常備軍が備えられた証拠ではないか。

古墳時代中期後半には一部の古墳で、農工具が組み込まれた武器の副葬がみられるようになる。)p91
→(駐留や移動をともなう計画的で遠距離、長期間の軍事活動に対応できる集団が増加。)p135

○(古墳時代中期半ば以降、百舌鳥・古市古墳群では首長墓と目される大型前方後円墳は巨大化し、それに反して中規模古墳は縮小していき、小規模古墳が増加。首長権が急速に伸張したか。)

○「369年に始まった高句麗百済の軍事的衝突、これにつづく300年代末から400年代初頭の高句麗公開土王の南下、さらに475年、百済高句麗の攻撃によって漢城を失います。このような朝鮮半島情勢と符合するかのように、当時の日本列島では武器の急速な機能向上と生産の拡大、また、整備された軍事組織の確立を目指す活発な動きがみられます。」p165

(百舌鳥・古市古墳群の勢力が直面した国内的な要因と国外的な要因を克服するために必要とされたのが常備軍)p164

(古墳時代中期の日本は、堅牢な防禦施設をもった城塞がみられない。また、畿内とその周辺の有力勢力や各地勢力が、領域境界線上に防衛ラインとなるような防塁などを設けた形跡がない。これは当時の朝鮮半島との大きな違いである。
ここから考えるに、形状、機能が統一された大量の武器の供給によって編成された軍事組織の主目的は、朝鮮半島への外征だったのではないか。)p165

○(300年代には庶民の使う布留式土器や祭祀土器にいたるまで、ヤマト発進のものが広がる。

考古学研究の結果と史学研究の結果には大きな乖離がある。史学研究の成果よりも考古学研究の成果の方が、同時代におけるヤマト王権のはるかに広い勢力圏を示している。)p180

○(ヤマト王権と対立した吉備の勢力も筑紫の磐井も、畿内と似た規格の前方後円墳で、かつ円筒埴輪をめぐらすなど、埋葬施設は似ており同族的。)p202

感想

○現代の軍事常識を転用しながら、新型武器の埋葬の分布から同盟、友好関係を推測しており、おもしろいなあ、と思った。
古墳時代といえども何も特別ではなく、現代の諸相と同じ部分もあるということだ。特に「軍事」という生き死にに直結する問題であれば、そこには合理性が他の物事と比べ重視されるわけだから、時代を超えた普遍性というのも獲得しやすいように思う。

○日本の古墳時代には防衛施設がないにもかかわらず、軍事武装が急速に発達し、また常備軍をうかがわせる埋葬が進んだのは、当時の日本の勢力は朝鮮半島に向けて武力行使していたのではないか、という本書の指摘には非常に大きな衝撃を感じた。確かに古墳時代の防衛施設について、それが全くないとはわからないが少なくとも聞いたことがない。弥生時代については防衛施設があったことで有名だ。

この問題は非常に重要な視点で、朝鮮半島に武力を向けていたというのは日本側の記録とも朝鮮側の記録とも符合する。

軍事常識的に考えれば、攻める方と守る方、単純なぶつかり合いなら守る方が圧倒的に有利。しかも防衛施設を構築すればなおのことである。だから戦乱の続いた時代には各地に防衛施設がつくられたし、戦国の世が終わると、勝者によって防衛施設が破壊されることもあった。

そう考えると本書の著者が指摘しているように、防衛施設が見られないことから、古墳時代の日本は戦争の少なく、同一の権力によって支配された時代だったといえるのではないだろうか。ことに戦争に関しては生き死に、権力の趨勢に直結する話なので、この推論は極めて強固だと思う。そしてそんな時代にあって大量の武器・防具が発掘される。技術も急速に進む。そう考えればときの大和王権が保持していた大きな武力的エネルギーがどこに向けられていたのか、日本の記録や朝鮮の記録をみても、それは自ずと明らかだろう。

防衛施設の有無というこんなシンプルで重大な視点を今まで私は全く気づいていなかった。筆者の指摘は衝撃的だった。

筆者の主張は大きな説得力がある。しかしその一方で疑問もある。それは渡海作戦はとても難しいということだ。日本の古墳時代に比べ、軍事技術がはるかに進歩していた元軍も、鎌倉政権に対する渡海作戦に失敗した。渡海作戦は難しい。地上経由で軍を送るのとはわけが違う。出動も補給も限られる分、多大なの物的・人的エネルギーを投下しても地上経由ほどの軍事力を発揮できるわけではないし、失敗したときにも簡単に撤退できず種々の代償が大きい。

確かに、豊臣秀吉による朝鮮出兵はかなりの程度、軍事的には成功したといえるが、それも100年ほど戦乱に明け暮れ軍事技術を高めた国と、平和を享受して軍事技術が低下、ないし伸びなかった国との差だろう。古墳時代の日本と、戦乱に明け暮れていた当時の朝鮮には当てはまらない。

そういうわけで、ときの大和王権が渡海作戦をした−−もちろん白村江の戦い以前の話ですよ−−証拠というか社会に与えた衝撃がもう少し記録されていてもいいような気がする。

あるいは朝鮮半島南部はヤマト王権の支配地であり恒常的に軍を送っていた、というのも考えうる。