冷血

冷血
トルーマン・カポーティ 著 佐々田雅子 訳 2005 9 30 新潮社


【本に記載されている宣伝より】
カンザスの村で起きた一家4人の惨殺事件。
5年余を費やして綿密な取材を敢行し、絞首台まで犯人たちを追った本書は、40年を経た今なお、輝きを放ちつづける。
捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル。
人間の魂の暗部を抉りつくし、後進の作家たちに無限の影響を及ぼした暗黒の教典、待望の新訳成る!


【私的感想】
 ホルカム村で起きた一家惨殺事件を極めて緻密に取材して成った本。しかし、想像の部分もかなりあるようなので、小説として読んでもいいし、そのような気構えで読むのがいいのかもしれない。過去の事実として読みたいのならば、どこからどこまでがインタビューや記録に基づき、どこからどこまでが著者の創作なのかよく注力して読むべきだろう。


 個人的にはなかなかおもしろかった。


 訳者後書きにて訳者は、「冷血」は被害者や犯人の家族そのものに力点が置かれていること、カポティが犯人の一人であるペリーに多少の共感を持って書いているということを指摘している。確かにその通りで、「冷血」を読むにあたって欠かせない視点だろう。


 事件や犯人たちの全てを理解できるかというだけの材料が練り上げられていて、純粋に凄い。


 殺人を行ったペリーがその時のことを、まるで自分が勝手に行動しそれを私が外から見ているような感覚だった、と供述している点が心理学的に興味深いと思う。


 また、徹底的な悪行を行う人物がいるということを、認識した。私はいつも、鞄を図書館に置きっぱなしにしたり、バイクにメットを置きっぱなしにしているので、以後少し気をつけたい。


 こんな事件をみていると、犯罪者の精神が犯行当時、正常だったか否かで裁判結果が大きく変わるのは不毛に思えてくる。


 精神が正常ではなくなるのもまた間違いなく自分自身であるはずだ。また、盲目的に性善説を信じるならば、殺人を起こした時の精神は正常ではなく、まちがいなく異常だったといえるだろう。そうだったら誰も裁けない。


 犯行当時の精神が正常か否かで、判決に大きな差が出るというのは、固有の自我というものを盲信しているからだと思う。また、そうするのは犯人の更正に重きをおいているからでもあるか。


 なお、こういうことに関してはまったく勉強しておらず、上記は現時点でも思いつきである。


《20070429の記事》